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ふたたび12月 2-②
暁斗はますます冷たくなってきた空気に、JRの改札を出るなり頬を冷やされた。神崎綾乃が指定して来たのは、秋葉原の駅にほぼ直結した新しいビルの2階にある、比較的カジュアルなイタリア料理店だった。冷たい雨に打たれずに移動できるのが有り難い。クリスマス前の華やいだ空気を纏ったレストラン街は賑やかで、どの店も予約が無ければ待たなくてはいけないような状況だったが、神崎は窓際の席に抜かりなく予約を入れていた。暁斗は席に通され、椅子から立ち上がり自分を迎えた彼女を見て、昨年のちょうど今頃、大崎まで彼女に会いに行ったことを思い出す。
「こんばんは、こちらで勝手に店を決めて申し訳ありません」
神崎は暁斗を座らせてから自分も椅子に腰を下ろした。彼女は今日はふんわりとしたニットを着て、一年前よりも若いような印象を受けた。
「いえ、小洒落た店も知らない身ですから」
暁斗が言うと、すぐに店員が飲み物のオーダーを取りに来た。
「もう1人は30分後に来ますから、食事は揃ってから始めていいですか?」
神崎の言葉に、店員は慣れた様子で、それまで軽いつまみを用意する旨を彼女に提案した。
「奏人は8時半に来ます、それまで保護者会です」
暁斗は神崎の言葉に思わず笑った。
「その前に……桂山さんの退会手続きが完了したことをご報告しますね、長らくご愛顧いただいて本当にありがとうございました」
彼女はこれまでになくくだけた口調ではあったが、丁寧に頭を下げられて、暁斗はとんでもないです、と言った。
「桂山さんは良いお客様でしたから、本当は別のスタッフをご案内して会員でいていただきたいところですけれど」
残念ながらそんな気にはなれなかった。暁斗は神崎に微笑だけを返した。
スパークリングワインと、チーズにサーモンを巻いたおつまみがやってきた。グラスを合わせ、ワインを口にすると、暁斗は小さく息をついた。緊張して神崎の話をカフェで聞いたのが、たった1年前だとは思えなかった。
「奏人をお願いいたしますね」
神崎は静かに言った。暁斗ははい、と頷くことしかできない。
「桂山さんとやっと気持ちを通わせたのにアメリカに行くだなんて、無茶をすると思ったのですが……あの子も今が自分の節目だと感じているのでしょう、自立してから貴方と一緒に歩きたいと考えているのだと思います」
「……正直なところ自信が無いのですよ、私は」
暁斗は苦笑して言った。神崎は僅かに首を傾げる。
「奏人さんはきっと一回りも二回りも大きくなって帰ってくる、これまで驚かされて来た以上のものを私に見せてくれるでしょう……私は平凡な人間です、奏人さんにますます相応しくなくなるだろうと思えて」
まあ、と神崎は小さな驚きを見せた。
「桂山さんはやはり謙虚なのですね、それに少し奏人を買い被り過ぎです……あの子は確かに何でも出来る子です、だから最後に自分を甘やかしてしまうところがあるのです……しかもそれを自覚していて」
暁斗は神崎が奏人に対して意外に厳しい目を向けていることに驚いた。
「西澤先生もそれをずっと気にかけていらっしゃいました……でも先生も私も結果的に奏人を甘やかしたのですけれど」
西澤と神崎は奏人にどうなって欲しいと思っているのだろう? 暁斗にはよくわからなかった。
「桂山さんはきっと奏人が今までに出会ったことのないタイプなのだと思います」
「奏人さんの周りには平凡な人がいなかったんでしょうね」
神崎は困ったように笑う。
「桂山さんは平凡な人ではないですよ、私は少なくとも、自分がゲイだとわかって1年足らずで自分にも周りにもそのことを納得させた人になど出会ったことがありません」
暁斗はワインに口をつけて、それはたまたま自分がついていたからだと考える。
「ラッキーだったんですよ、会社では山中が先を歩いていましたし……奏人さんはいつも私を支えてくれました、家族も……」
「運も実力のうちなのですよ、運命の女神は努力して力をつけた者にしか微笑みかけないのです……求めれば与えられるとか、引き寄せるとも言い換えられますが」
相変わらず神崎は不思議な人だった。妙に話に説得力がある。
「うちのスタッフは多かれ少なかれ皆そうですが、奏人は特に自己犠牲的です……でも桂山さんとはそうでなくていいと気づいたようですね、それに西澤先生に対してそうだったように、寄りかかってばかりでは駄目だとも思っているようです」
奏人は時にナーバスになり、何かに怯える。ずっと気になっていたので、神崎に確認してみる。
「まあ、あの子がそんな振る舞いを貴方に見せているのですか?」
逆に訊かれて、暁斗は少し困惑する。
「ええ、割とぽろっと泣くこともあります」
「あの子自身が混乱しているのね……ああ、奏人は自己評価が低いので、桂山さんに嫌われたくないと不安になるのでしょう……父親との関係が良くなかったことに起因しているものです」
神崎は沈んだ表情になった。暁斗も奏人が父親をよく思っていないことには気づいていた。
「でもあの子は歳の離れた人が好きなのです、桂山さんを含めて……父親への反発の裏返しなんです」
「……奏人さん自身はそれに気づいてるんでしょうか」
神崎ははい、と迷いなく答えた。暁斗は奏人に対しても、神崎に対しても驚く。神崎は暁斗の胸の内を読んだかのように、続けた。
「私は臨床心理士です、ディレット・マルティールの一部のスタッフには私がカウンセリングの初歩を手ほどきしています、お客様により寛いでいただけるように」
暁斗はあ然とした。ディレット・マルティールは優しく気立ての良い若者ばかりを潜ませている魔宮だが、それさえも計算されたファンタジーなのだ。神崎がいつも暁斗の言動を先回りするのも、納得できる。
「奏人には良いカウンセラーの素質もあります、自分のこともある程度客観的に知っています」
「そうでしたか……そりゃ俺なんかを手玉に取るのは訳ないな」
暁斗は後半を独り言にしながら言った。神崎は小さく笑う。
「手玉に取るだなんて……心理学を勉強していても、自分に経験の無いことはなかなか理解できないものなのですよ、恋愛経験の少ない奏人はだからこの半年迷って……」
神崎は少し窓の外を見た。色とりどりの傘が揺れ、建物の無数の灯りが雨に滲んでいる。
「驚くほど大人になりました、あらゆる面で……奏人の常連様たちがほんとにあの子の卒業を惜しんでくださっています、かなとはいつの間にあんなに色気のある大人びた子になったんだって」
神崎は奏人の変化を暁斗のせいだと言いたいらしかった。暁斗は赤面しそうになるのを意志で押さえ込み、ワインを少し口に含む。
「でもこれからあの子が変わっていくのはこんなものではないでしょう、桂山さんが見守ってくださるなら私も安心です」
「いやはや、責任重大ですね」
神崎の唇に穏やかな笑みが浮かぶ。本当に美しい人だが、決まった相手はいないのだろうか。暁斗は彼女に、臨床心理士としては仕事をしないのか、尋ねてみた。
「週に3日、この近くのクリニックで雇われています……実はディレット・マルティールは、自分のクリニックを開業したくてその資金を作るためのお手伝いだったのです、当初はスタッフのメンタルヘルスの管理を頼まれていました」
彼女はあっさりと教えてくれた。
「今となってはどちらが本業かわからないくらいになってしまいましたけれど」
暁斗はあくまでも神崎が、ディレット・マルティールの運営を副業に位置づけていることに驚きを禁じ得なかった。そう言うと、彼女は小さく笑い声を立てる。
「聞く人によっては失礼だと受け止められそうですが、クラブは永続を目的にしていないのです、開設時から今に至って……だからスタッフも裏方も皆原則副業なんです」
「じゃあ閉める時というのは、どういう状況を想定してるんですか?」
「ゲイ専門のデリバリーヘルスが知る人ぞ知るようなものでなくなりそうな社会になれば、でしょうか」
そんな時が来るのだろうか。暁斗はやや気が遠くなる。同性カップルが夫婦と認められて(夫婦とは呼ばないのだろうが)、2人で出かけてもおかしな目で見られず……。
「私や母団体のトップはあと10年ほどで日本もそうなると考えています、世界の流れがそうなのですから」
「そうでしょうか……」
神崎に勧められて、暁斗はサーモンを口に入れた。美味である。彼女は奏人から食事の際の暁斗の様子を聞いているのか、微笑ましげな表情になっている。
「桂山さんと奏人がそれぞれの方法で……時には一緒にそういう社会を作るべく働く姿が……何となく私には想像できます」
「奏人さんはともかく、私はそこまでできませんよ」
「そうでしょうか……奏人はきっと貴方のブースターになりますよ」
その時奏人が店員に連れられて、テーブルにやって来た。彼は折り目正しく、こんばんは、遅れてすみません、と2人に頭を下げた。お疲れ様、と神崎が彼を労う。
黒いウールのコートの下に、奏人はブルーグレーのダブルのスーツを身につけていた。紫がかった濃いベージュのネクタイなど、暁斗ならとても合わせられない。今夜もええとこの子のような奏人は、コートを店員に預けて暁斗の右に座ったが、やや憂いを帯びた顔をしていた。彼に見惚れて幸福感に満たされていた暁斗の胸に、心配がスコールのように降って来る。
「フォーマルでなくても良かったのに」
神崎が微笑しながら言うと、奏人はリクエストだったんだ、と口許をほころばせた。少し目が赤い。お食事を始めましょうか、という店員の声に、神崎が頷いた。
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