ふたたび12月 4-①

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ふたたび12月 4-①

 日本橋のデパートの食料品売り場は、年始のごちそうの買い出しの客でごったがえして、外の寒さを忘れさせた。奏人は暁斗にぴったり寄り添って、楽しげに刺身や焼き鯛を眺めている。 「おせち料理は母が用意してくれる、今夜と明日食べるものだけでいいよ」  実家の母の熱いコールに(あらが)えず、年明けに奏人を立川に連れて行く約束をしてしまった。抜かりない乃里子は、暁斗に連絡すると同時にメールで奏人を誘っていた。 「嬉しいな、暁斗さんの家でお正月らしく過ごせるなんて」 「おせち料理はたぶん買ってきたやつだ、過剰に期待しないで」  料理上手な奏人も、流石(さすが)におせち料理は作らないだけに、期待値が高いようである。 「手ぶらで行く訳にはいかないね、何を持っていこうかな……」  古風な家に育った奏人は、金箔入りの酒の一升瓶や毛蟹、一盛り数万円の果物セットを物色する。暁斗は仰天した。 「そんなのいい、高級過ぎて口に合わないよ、お菓子か何かで……」 「お父様もお菓子でいいの?」 「多少は飲むけど……」  奏人は店員に勧められた日本酒の限定飲み比べセットと、有名店の高級果物ゼリーを買った。普段の買い物は極めて庶民的な彼だが、人に贈るものの値段をあまり気にしないのは、育ちだけではなく、水商売の人の感覚なのかも知れなかった。  年越しそばと切り餅、野菜や肉も少し手に入れて、デパートの中の喫茶店に落ち着く。 「実はにしんそばを食べないかって誘われたんだけどね」  奏人は昨夜、ディレット・マルティールの最終出勤を終えた。得意客の梨園の男性は、京都の南座の初芝居のために旅立つ前に、奏人を指名した。その時にそんな声をかけられたらしかった。 「海老天でよかったから丁重にお断りした」 「俺にしんそば食べてみたいな」  暁斗の言葉に奏人はくすっと笑った。 「関西はだしが違うもんね、いつか食べに行こうよ」  奏人はいい顔をしていた。少し疲れが目許に浮かんでいるものの、憑き物が落ちたようなすっきりした表情である。卒業を発表してから昨日までに、ほぼ全ての得意客に挨拶を済ませた。年が明けたら、同僚たちがお疲れ様パーティを開いてくれるのだという。 「僕もこれまで沢山のスタッフを見送ったけど、遂に自分が見送られるんだなあって」 「そうか……やっぱり年末や3月に辞める人が多いの?」 「うん、年が明けたら2月に1人……隆史(たかふみ)と、3月に1人の卒業が決まってる」  隆史の退職は、山中から聞いて知っていた。卒業式の前から、就職する会社の研修が始まるらしかった。 「新しい子は採用しないのかな」 「考えてないんだって……あの事件が綾乃さんや母団体にかなりこたえたみたいで、少し規模を縮小して、今いるメンバーで信用を取り戻す気なんじゃないかな」  客を増やし過ぎたと以前神崎は話していた。奏人のように、新人の研修を手伝うスタッフもいないのかも知れない。  ゆっくりコーヒーを飲み、相談室のメンバーでの忘年会や、営業課の忘年会の話をしてから、暁斗は時計を確認して奏人を(うなが)した。彼の持っていた、着替えの入ったバッグを持つ。華奢な彼が両手をいっぱいにしているのが、少し痛々しかったからだ。彼は初め遠慮したが、すぐはにかんだ笑顔になり、俯き加減で礼を言った。  年越しは楽しいイベントだった。奏人は暁斗の家に今日から2泊して、立川に来てくれる予定である。実家に泊まることは、奏人は固辞した。2月にアメリカに発つのでなければ、お正月にお邪魔するだけでも図々しいよ、と彼は笑った。  電車は、里帰りをする人で混雑していた。と言ってもほとんどが、これから東京を離れる様子だった。荷物が多いので、大森に着くと、一度マンションに戻ることにした。 「お酒は後で買おう」 「何年か後も同じようなことになるのかな」  奏人は笑いながら言った。彼がアメリカから帰国した時は、暁斗の許に戻ってくるのだ。きっとその時は、大きなスーツケースを転がしているのだろう。 「いや、もっと大変なんじゃないかな」  暁斗が鍵穴に鍵を入れながら言うと、奏人はそうだよね、と笑った。玄関で靴を脱ぎながら、この部屋では奏人を迎えるには狭いなと思う。しかし奏人が戻ってきてから、暮らす場所を彼と決めたい気がする。 「わ、台所ぴかぴか……暁斗さんすごい」  奏人は部屋に入るなり言った。昨日一昨日と、2日かけて大掃除をした。ここで暮らし始めて、最も年末の掃除を丁寧にやった。 「気合い入れて掃除したんだ……ゆっくりしてて、お酒買ってくる」 「僕も行くよ」  奏人は勝手知った冷蔵庫に食料を入れる。そんな姿を見ているだけで、暁斗は幸せである。つい彼を抱きしめに行ってしまう。 「……もうこれからいちゃいちゃし放題だね」  腕の中の奏人は耳元で囁いた。どきっとした。 「我ながら頑張って我慢したなと思って」  軽く口づけされて、部屋が寒いにもかかわらず暁斗の顔が熱くなる。奏人の黒い瞳に、暁斗をからかう光が浮かんだ。 「そんな顔されたら、年越しそばを食べる前に一度いかせたくなるよ」  言われて暁斗は、そうしてくれてもちっとも構わないと思いつつ、理性を立て直した。 「……その前にお酒買いに行こう」  奏人は素直にうん、と言って暁斗の腕からするりと逃れたが、すぐにその左手で暁斗の右手を握った。子どものお使いのように、手を繋いだまま玄関を出ると、早い夕暮れの光が辺りを包み、一瞬知らない場所に来たような気がした。……いちゃいちゃし放題。本当にそんな日が訪れて、暁斗はそのための心構えが全くできていない自分に気づく。  天ぷらそばだけでは足りないだろうと、きのこや山菜の入った炊き込みご飯を作り、2人で食卓を囲んだ。マンション内でも里帰りをする人が多いので、出入りの音も少なく、静かである。それだけに暁斗にとって、部屋で奏人と2人でいるという事実が、いつになく胸に沁みる。 「蓉子さんと新婚さんの頃も、そんなそわそわしてたの?」  奏人は急須で茶を湯呑みに注ぎながら、笑い混じりに訊いてきた。その所作が美しくて見惚(みと)れた。 「そわそわしてるように見えるかな、……昔もしていたのかも知れない」  嘘ではなかった。結婚した時、暁斗は実家を出て暮らすのが初めてだった。蓉子と一緒に生活を始めて、家に戻ると彼女が出迎えてくれることや、朝目覚めると彼女が傍にいることにときめいた。でも今の気持ちとは少し違う気もする。 「あの頃が嬉しかった、だとしたら……今はめちゃくちゃ嬉しいって感じ」  我ながら上手く表現できたと暁斗は思ったが、奏人は小さく笑った。 「暁斗さん可愛い」  言われて暁斗は、微妙な気分になる。 「奏人さんは嬉しくないの?」 「……むしろ戸惑ってる感じ」 「何に?」  暁斗は先月鎌倉へ行った時、奏人が自分のことを話したい気持ちを抑制しようとすることに気づいた。だからそんな時は、彼が話しやすいようにしようと思っている。必要以上に言葉を募らなくてもいいとは思うが、好きな人には自分のことを話したいものだ。奏人に自覚があるかはわからないのだが、自分をその対象にしてくれているらしいことが嬉しい。 「……遂に暁斗さんだけのものになる環境が整ったこと……」 「不安?」  奏人は目を見開き、小さく首を横に振った。 「嬉しいんだよ、ただ気持ちの整理がつかないまんま、ほんとにこんな日が来たから」 「まず環境に慣れることから入ればいいよ、転職したと思って」 「これは転職なの?」  暁斗の言葉に笑ってから、奏人はいつものように、いただきます、と両手を合わせて言った。暁斗も笑い、それに(なら)った。少し値が張っただけに、コシの強いそばは美味しかった。大きな海老天の衣も、さくさくしている。 「美味しい」  暁斗が思わず言うと、奏人は少し箸を止めて微笑んだ。 「暁斗さんってよく食べてよく寝て……あっちは淡白だけどいつも幸せそうだから、何だか人の営みの尊さを感じさせてくれるよね」  暁斗は返事に困り、大げさだなぁと応じた。 「奏人さんはどちらかと言うと左脳を使ってる人だから、俺みたいなのはそれこそ犬といるみたいで面白いだろ?」 「自虐的だね、確かに面白いし癒される」 「……じゃあ俺が奏人さんに癒しを感じてるのは何なのかな」  奏人はうーん、と首を捻った。そして箸をテーブルに置き、胸の前で両手の人差し指と親指でハートの形を作り、言った。 「愛?」  暁斗は箸を持ったまま吹き出した。その仕草が可愛らしくて悶絶しそうだった。 「どうして笑うの?」 「いや……」  唇を尖らせる奏人には申し訳なかったが、想定外の返答が新鮮過ぎたし、受けを狙っている訳でもないところが愛おしかった。 「そうだな、そういうことなのかな」 「たぶんそうだよ」  何となく可笑しみのある空気の中、そばと香ばしいご飯を食べる。ただ一緒に食事をすることの幸福を、暁斗は噛みしめた。
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