この愛をすくって、指先から落として。

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 お父様は穏やかで公正でお優しい方だ。夫の愛人が産んだ娘を引き取って、慈しみの情をかけてくださる奥様も。だからふわふわですべすべした寝心地の良い寝台を、涙に濡らしてしまってはいけないの。  本当は、あの日も泣いてはいけなかった。狭くて暗くて寒いあの邸へ、私を迎えに来てくださったお父様に、精一杯の礼を尽くさなければならなかったのに。あの日に涙を零せたのは、お母様を連れてゆく死神(グリム・リーパー)が、闇の色をした外套で私を隠してくれたから。 「フン、てめぇが愛した女を死神に連れてかせて、ガキを引きとりゃ慈善家かよ」  ちっ、と舌打ちを飛ばしたその死神は、月のない夜色の瞳で私を見下ろした。六歳になったばかりの私より、十ほど年長に見える死神だった。目は夜色だけれども、とがった顎と鼻先、鋭い眉と眦が、金貨に彫られた英雄のように力強く美しかった。剣呑な眼差しの強さに吸い込まれてしまいそう。死神は一歩距離をつめた。私は後退り、肩を跳ねさせて息を呑んだ。だけれども私が後退ったぶんだけ距離をつめた死神にいよいよ動きを止めた。私も、死の世界へ連れてゆかれる。喉の奥につまる息、それをがたがたと震わせた私を、覆ったのは闇の色。 「泣いときな。今のこの瞬間はまだ子供だ。あんたがこれから、大人の薄笑いを貼り付けて生きてくんだとしても」  もうひとりの死神に銀貨を渡しているお父様から、私を背中に隠して、夜風の静けさで囁いた。外套の闇色は、ひっそりとささやかに、私に寄り添う影みたい。私を抱きしめてくれたお母様の腕の柔さを思い出した。その途端に、目の縁から涙が零れた。お母様の声の温度。お母様の言葉の重み。思い出したら、息が苦しくなった。胸のずっと奥が痛くて仕方がなくなった。  お父様がもうひとりの死神との話をつけている間、私はひたすらにお母様を思った。お母様を思って存分に涙を流した。                *  草木が思い思いに枝葉を伸ばす広大な森。そこに隣接した集落を訪れるたびに、ジェイドはげんなりとした顔をする。 「また邸を抜け出したのかよ」  思った通り、げんなりとした顔を見せてきたジェイドに、「そうよ」と得意げに笑んでみせる。「ここは国民様が来るとこじゃねぇって何度も言ってんだろ」私からふいっと顔を背けて、ジェイドは薪割りを再開した。コン、コン、と丸太は彼の斧で容易く割れて、薪となって積み上がる。私に向けられた背中へ、「あなたも国民だって、私も何度も言っているわ」と拗ねた声をかける。 「この国では、病で死んだ人たちは、聖なる炎で穢れを払ってからじゃないと埋葬できない。聖なる炎を司るあなたたちは、たくさんの魂を救っている。それなのに、国民でないというのはどういうわけ?」 「知らねぇ。それが法律だ」
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