思い出は遠く、異世界はあまりにも優しい

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 明堂翔(しょう)は、異世界にいた。  いや、まだ断言はできないけれど、異世界にきたのだと思える程度には、身に覚えのない場所にいた。  目覚めたとたん、見渡す限り草木に囲まれているというのは、漫画か小説のようだと思ってしまっても、仕方がないと思う。しかもそれが、見たこともない草木ばかりなのだから。  寝たのはタクシーのなかだった。翔に寝たという自覚はないけれど、気づけば意識を失っていたというのは、このところ珍しいことではなくなっている。  それでは、寝る前になにか変わったことがあっただろうか、と思い返してみれば、タクシーに乗る数時間前、翔はぺったんこにつぶれてしまったのだった。  もちろんこれは比喩だが、体が紙のようにぺらぺらになっているんじゃないかと思えるほどに力が入らなかった。そのため、うっかり腰をおろしたベンチから立ち上がれなくなって、沈んでいく陽を見送っていた。  ふり返ればここ数日、体が重かった。  いや、数十日か。それとも数ヶ月だろうか?  あらためて考えて、体が軽かったときのことがうまく思い出せないことに思い至り、翔は考えるのを放棄した。  それほどに体が、頭が重かったのだ。  具合が悪いならば早退すべきだ、と言ってくれるような上司はいない。具合が悪かろうが都合がつかなかろうが、仕事は際限なく増えていくし、休みはとれない。  今日も、職場にとどまれば積み上げられる仕事が増えるばかりだとわかっていたから、翔は奇跡のように人目が途絶えた瞬間を逃さず席を立ち、むやみと重たい会社のガラス戸を押し開け、外に出た。タイムカードは終業時間きっかりに押してあったから、鞄ひとつ抱えて歩くだけでいい。    そして会社を出て、ふと見上げた空が明るくて、おどろいた。  時刻は十九時。職場の冷房が朝から晩まで稼働しているこの季節だから、まだ陽が残っていてもおかしくないのだけれど。  目に飛び込んできたさわやかな水色は、たしかに翔におどろきをもたらした。  いつぶりだろう。明るい空を見上げたのは。  ぽっかり空いた胸に、ふとそんな思いが転がって、空を見る余裕さえなくなっていることにも気がついていなかった自身に気がついて、翔はことばもなく立ち尽くした。 「……あー……」  意味のない声が口からもれる。  翔のおぼろげな記憶では、今朝、職場に着いたのは夜明けごろだったか。  ロッカーに置いた着替えが底をついて、昨夜は仕方なしに一度帰宅したのだ。駆け込んだ終電で帰って倒れるように布団に入り、アラームに叩き起こされシャワーで目をこじ開けて、始発で会社に着くなりがむしゃらに机の上の仕事を片付けて、奇跡的に部署の人員がだれもいない瞬間を迎えた。  そしてよろめくようにして会社を出たところで、久しぶりに明るい空に出会ったのだ。  その空に衝撃を受けた翔は、いつのまにか道ばたのベンチに座り込み、それきり立ち上がれずにいた。    何に衝撃を受けたのだろう。それは翔自身にもわからなかった。  空をぼうっと見上げて、つぎつぎに移り変わっていくその色を見つけるたびに、打ちのめされる。  夕焼けが遠のきはじめ、夜空がじわりと広がるころになると、自分が頼りない紙きれにでもなったかのように、もうすっかり立ち上がる力はなくなっていた。 「翔(しょう)? ああ、やっぱり翔だ」  そんなとき、不意にだれかに名前を呼ばれた。  翔だけを目指して発せられた声に、空気ににじみかけていた自身が形をとり戻す。  まだ空を見上げていたがる重たい首をめぐらせれば、声の主はすぐに見つかった。 「淳史(あつし)……」    なかば藍色に飲まれた雑踏のなか、ひとりの男の姿だけが翔の目に鮮明に映る。  その顔を目にして、ほう、とこぼれた吐息交じりの翔のつぶやきを拾ったのだろうか。付き合いの長い親友が、うれしそうに大またで歩みよってくる。 「久しいなあ、翔! 今日こそ飲みに行こうや!」  藪から棒に誘ってくるがこの淳史、格別に大酒飲みなわけではない。互いが成人した後に幾度か飲みに行ったことはあるが、今日こそ、というからには誘いを断っている過去があるわけだ。それも何度も。 「何べんも誘ってくれたのに、ごめんな……」  すなおに口をついて出たあやまる声があまりにも弱々しくて、自分でおどろく。  淳史からの誘いに最後に応えたのは、入社前のこと。以来、休みのたびに声をかけてくれる淳史に返したのは、謝罪と断りの連絡ばかり。  つねづね申し訳なく思っていたとはいえ、これほどか細い声になるとは。  目の前で聞かされた淳史もおどろいたのだろう。明るく笑っていた顔が一転、心配をぎゅうぎゅうに詰め合わせたような顔になる。そういう顔をすると、急にお袋さんそっくりになるのだな、と翔は頭のすみでぼんやりと思う。 「いや、忙しいのはわかってるからいいけど……なあ、翔。おまえ、ちゃんと休んでるか?」 「やあ……ははは」  いちおう週に一回か、二週に一回は休日がある。たまった洗濯をクリーニングに持っていき、あとはただひたすら寝るだけの休日だが。  それを言えばさらに心配させてしまうと、まっすぐな心配に翔が返せるのは、あいまいな笑いだけだ。 「入社してしばらくは研修やらなんやらでおれも忙しかったけど、少しは仕事に慣れてきたやろ。もう、前みたいに終電逃して会社の近くのネカフェで寝たりしてないよな?」 「あー、まあ、うん」  昨夜こそ帰宅した翔だが、終電を逃すのはすでに常態と化している。  などと言えるはずもなく、答えをにごせば淳史からの視線がきつくなった。 「……おまえ、めちゃくちゃ顔色悪いぞ。ちゃんと食ってるか?」 「うん? ああ、まあまあ、な」  食欲は、ずいぶん前から見失っていた。  一時期は食べる時間も惜しくて食事を抜いていたが、そうすると本格的に頭と体が動かなくなったので、このごろは朝に栄養ドリンク、昼にスティックタイプの栄養補助食品、夜はまた栄養ドリンクを飲む日々を過ごしている。  空腹はどこか遠いところにあって、不自由はない。けれども正直に言うのは憚られる。  せめて、とへらへら笑って見せる翔をじいっと見据えていた淳史は、ふっと息を吐いて翔の手を取った。 「あした、休みだよな? うち来て、めし食ってけ。なんなら泊まればいい」  言いながら翔の手首を引いて立たせた淳史は、客待ちのタクシーが並ぶほうへと足を向ける。   「いや、あしたはちょっと仕事があって……」  引かれるままに立ち上がってしまった翔は、慌てて淳史の手をはずそうとするが、指に力が入らずうまくいかない。  けれども、こうしている間にも翔の机の上には仕事が積まれているだろう。衝動的に会社を出てきたが、土日に少しでも減らしておかなければ、来週はいよいよネカフェに泊まる時間すら取れなくなってしまう。   「だったら、明日の夕方なら空いてるよな?」 「いや、その、明後日もちょっと会社に行かなきゃならなくて……」  控えめに誘いを断れば淳史は顔をしかめて、ますます力を込めて手首を握りしめる。 「しおれた風船みたいな顔して、土日出勤する気か。それで、月曜日に休むわけでもないんだろう。もういい。付き合え」  言うだけ言って、淳史は振り向きもせずに歩きだす。しっかりと手を取られている翔は、踏ん張りがきかないためにずるずると連れていかれてしまう。 「お、おい」  呼びかけても返事はない。  ずんずん進む淳史の背中は反論を受け付けるつもりもなさそうで、翔はもつれる足でついて行くしかない。  どうにかこうにか転ばずにたどり着いた乗り場は、意外なほどに空いていた。終電を逃し、ネカフェも満室のときに幾度か世話になったときにはタクシーがなかなか捕まらなくて苦労した記憶があるけれど、あれは時間帯が悪かったのかと翔は思い当たる。この時間は利用客も多いけれど、タクシーも多く回っているからそれほど待たなくていいのだろう。  すんなり乗れてしまったタクシーの座席で、となりに座った淳史は腕を組んでむっつりと黙り込んでいる。  こうなった淳史は、めったなことでは応じない。  長い付き合いでそれがわかっている翔は、本日の帰宅をあきらめた。  それよりも明日の朝早くに起きて、シャワーは淳史の部屋で浴びるとして着替えは会社にあるものを着て、と予定を考えているうちに、翔のまぶたが下がってくる。  静かな車内で気持ちのいい車の揺れと眠気に負けて、知らず知らずのうちに、翔の意識は真っ黒に塗りつぶされていた。
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