思い出は遠く、異世界はあまりにも優しい

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 昨日のことを思い出してぼんやりしていた翔は、あらためてあたりを見回し、まばたきを繰り返す。  寝て、覚めて、目に映ったのは、珍しいというか、予想していないものだった。 「……木?」    寝転ぶ翔のうえには、木があった。  木の枝のふしや、またのところには丸い塊がある。うにのような見た目をしたその塊は、ちいさな白い花をぽつりぽつりとつけていた。まるで、木の上で花の塊が休んでいるようだ。 「なんだ、あれ……」  不思議な花に気を取られながらもゆっくりと体を起こした翔は、あたりに目をやってぽかりと口を開けた。  翔の横たわるところからすこし離れて、ちいさな池があった。  そのうえを走った風は心地よく冷えていて、池があること自体はたいへんありがたい。ありがたいのだが、かすかな風に揺らめく池の水面から、木が生えているのはどういうことだろうか。 「水に、生える木?」  池から高く伸び上がる木は、水ぎわの部分が幅広く張り出しており、魚のえらのようだ。その木のまわりに生える、とげのようなものはなんだろうか。ぽつりぽつりと木を取り囲むように水から頭を出すさまは、なにかの儀式めいている。  神秘的というか、ファンタジー映画というか、なんとも不思議な光景だ。    そのほかにも、視界に映るだけでもさまざまな木があるのに、どれも翔の記憶にある木とは違うように思う。それほど木を熱心に見たことはないけれど、すくなくとも木の上に根を下ろす花や、水の上に生える木は翔の日常生活にはなかった。 「……ここ、どこだよ……」  見渡す限り、あたりに広がるのは見覚えのない植物ばかり。ビルどころか人工物さえ見当たらない。  タクシーで寝落ちして、目覚めたら見たことのない植物に囲まれている。学生時代に読んだファンタジー小説にもそんな話があった。  まさか、自分が体験するとは思ってもいなかったけれど。  落ち葉のうえで身を起こしたまま、翔がぼうぜんとしていると、かさり。背後で物音がした。 「ああ、ようやく起きたか」    ざく、ざくと落ち葉を踏んで、現れたのは淳史だった。ワイシャツ姿の淳史が歩いてくる。  そこでようやく翔は、自身も昨夜と同じスーツ姿であることに気がついた。腹のあたりでくしゃりとしているのは、見慣れた自分の背広の上着だ。おおかた、淳史が気を利かせてかけてくれたのだろう。 「淳史。なあ、ここって……」   「まあ、先にこれ飲め。向こうの湧き水で汲んできたから、うまいぞ」  翔の問いかけをさえぎって、淳史は両手で支えていた緑のものを差し出した。  硬そうな葉を編んで作られたそれは、たっぷりの水で満たされている。透きとおった水を目にして、翔は自身の渇きに気がついた。  礼を言うことも忘れて水を受け取り、急いで口をつける。 「んっ、んぐ、ふっ、はあっ」  息つぎをする余裕もなく、器が逆さまになるまで飲み干した。  のどを、胸を通りぬける水の冷たさがはっきりとわかる。まるで、息を止めていた体が生き返っていくようだと翔は感じていた。 「もっと飲むか」  いつの間にか姿を消していた淳史が、息を切らせたまま葉っぱの器を差し出してくる。  よほど急いでくれたのだろう、先ほどよりも中身がすくないそれを濡れた手から受け取って、翔は照れ笑いを浮かべた。 「ありがとな。なんか、すげえ渇いてたみたいだ」 「まあ、これだけ寝ればのども渇くよな。もうすぐ夜だ」  翔が意図した渇きと、淳史が受け取った渇きはどこかずれていたけれど、翔にはそれよりも気になるところがあった。 「夜!? まったく仕事してないのに!」  改めて空を見上げれば、たしかに太陽が見当たらない。きっと、間もなく空はオレンジ色の光に満ちるのだろう。  一気に稼働し始めた翔の頭のなかで、これから職場に向かうためのプランの組み立てが行われる。それと同時に背広をつかんで立ち上がろうとした翔は、肩を押さえつけられてまた地面に尻をつく。 「おい、なにを……」   「仕事って、どうやって行く気だよ」  翔が上げかけた抗議の声をさえぎって、淳史は真顔で翔を見下ろす。 「ここがどこかもわからないのに、どうやって仕事に行くんだ。お前が寝てる間に周りを歩いてみたけど、ひとも家も見当たらなかった。どうやって来たのかもわからないのに、どうやって帰るっていうんだ」  淡々と言う淳史の顔は、しごく真剣だ。茶化したりふざけたりする様子はかけらもない。 「……それにお前、そうとう疲れてるよ。昨日の夜からいままで、ずうっと寝てたんだ。一回も起きずに。いまだって、おれの手を押しのけられないくらい弱ってる」  言いながら、淳史は悲しげな顔をする。  翔は反論できなくて、肩を押さえてくる力に抗うのをやめた。力を抜いて座る翔に、淳史がほっと息をつく。 「帰り道を探すにしても、せめてもうひと晩、休んでからにしよう。やみくもに動いて無理して、倒れたら元も子もないからな」 「……じゃあ、せめて電話だけでも」  今日、出勤できない旨を伝えたところでなにが変わるわけでもない。そもそも休日扱いなので、給料に影響することもない。そもそも電波が届くかもわからない。  それでも仕事のたまり具合だけでも確認したい、と願う翔の望みはすぐに砕かれる。 「スマホもカバンもないぞ。近くに落ちてるかとも思ったけど、まだ見つけられてない。それも併せて、しっかり休んでから探しに行こう」  連絡手段が断たれているというのに、淳史は至って冷静に告げる。もしかしたら、翔が寝ているあいだにさんざん探し回って、あきらめたのかもしれない。 「……ああ、そうだな」  翔がしぶしぶうなずくと、淳史はぱっと表情を明るくして、翔のとなりに腰を下ろした。背広のズボンが汚れることは、気にしていないらしい。  そして、すぐそばに置いてあったらしい淳史の上着を引き寄せて、ふたりの間に広げてみせた。 「じゃあ、まずは腹ごしらえと行こうぜ」  見慣れた黒い背広から現れたのは、見慣れないものの数々。  一見、サクランボかと思ったちいさなピンク色のものは、よく見ると鈴の形をしていて、やはり見たことがない。明らかにおかしなけむくじゃらの赤い球体は、現地の生き物だと言われても納得できる不可思議さだ。そのほかにもごつごつした緑の塊やウロコのようなものに覆われたイチジクに似たものも転がっているが、なかでも目を引くのは、背広の真ん中にある物体だ。  黄味がかったいぼをびっしりと生やしたその物体は、とにかくデカい。形だけならばラグビーボールに似ているが、その大きさは背広の大部分はそいつで占められるくらいで、へたなビーチボールよりも大きいように思えた。 「これ……なんだ?」  あまりにも予想外のものを見せられて、翔はぽかんと口を開ける。その顔にはまだまだ疲れが残っているものの、驚きだけで満たされた気の抜けたものだった。  それを見た淳史は、満足そうにいひひ、と笑う。 「すげえだろ? ぜんぶ木の実だぜ。翔が寝てるあいだに、とってきたんだ」 「食える……のか?」  疑わしげに木の実を見回す翔に、淳史は力強くうなずく。 「どれも虫がついてたり、かじった跡があるのを確認してからとってきた。まあ、見た目はあれだけど、とにかく食べてみようぜ。腹減ったろ」  空腹は感じていないし、確認法がいまいち信用できない翔だったが、淳史は止める間もなく細長い石を使って馬鹿デカイ果物に挑みかかっていた。  切った、というよりはむしり取った果肉を手渡され、ふたりそろって口にする。 「……あまい!」 「……けど、なんかねっとりしてて、うーん……」 「じゃあこれは?」    次に手渡されたけむくじゃらの赤い実は、剥くと意外にふつうの見た目をしていた。 「白い玉こんにゃくみたいだな……」 「あ、でもおれ、これ好きだわ」  鈴型の果物を口に放り込んだ淳史が首をかしげる。 「こっちはサクランボみたいだけど……食感はシャキシャキなんだな」  その横のごつごつした塊をかじった翔は、変な顔をしている。 「これは……なんか……ジャリジャリして甘くて、まずくは、ないけど……」  はじめは乗り気でなかった翔も、しだいに自分から手を伸ばして未知の果物に挑戦しはじめた。それでもやはり食欲までは戻ってこないようで、ひととおり味見程度にかじって、食事を終えた。  淳史は好きなように食べていたが、水をなめる翔に無理にすすめるようなことはせず、ときおり話しかけるばかり。  ふたりともが食事を終えるころには、あたりはすっかり暗くなっていた。 「……暗いな」 「な。電気がないと、こんなに暗いんだな」  翔と淳史はならんで落ち葉に横たわり、夜空を見上げる。 「星、すげえな」 「ああ」 「虫の声、かなりうるさいのな」 「……ああ」 「冷房なくても、あんがい涼しいな」 「…………」  淳史の呼びかけに、応える声が途切れた。 「翔? ……寝たのか?」  しばらく待って、返事がないのを確かめた淳史は静かに体を起こす。 「ちゃんと、休めよ」  ちいさな声でそう言って、淳史もそっと眠りについた。
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