思い出は遠く、異世界はあまりにも優しい

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 すがすがしい朝、というには陽射しがすこし強すぎる。  まぶしさに顔をしかめながら目を覚ました翔は、今日も寝すぎたのだとため息をついた。  見上げれば、木々の間に輝く太陽は空の高みからすこし降りはじめたところ。陽射しの強さと併せて考えれば、昼を過ぎてしばらく経ったくらいだろうか。  のそり、起こした体はいつになく軽い。すこし軽すぎてふらふらするくらいだが、ここしばらく付きまとっていた締め付けるような重苦しさが無いだけ、ずいぶん楽だ。  淳史はどこだろう、とあたりを見回せば、すぐそばで名も知らぬ果物がちいさな山を作っているのを見つけた。昨夜、かじったものも残っているが、いくつか見慣れぬものが増えているから、また淳史が探してきたのだろう。  ふと、翔はそのひとつを手に取ってみる。  明るいところでじっくり観察しても、やはり見覚えがない。記憶のなかのどの果物とも違うのに、翔はなつかしさに口もとをほころばせた。 (あんなにわいわい言いながら食べたのは、いつぶりかな)    このところの食事をふり返りながら、翔の頭に浮かぶのは学生服を着た自分たちの姿。弁当を食べながらくだらないことで笑い、誰かが買ってきた新商品のお菓子にむらがって大騒ぎしたり、どこの店に寄り道するかで真剣に話し合ったり。  なにがそんなに楽しかったのだろう。  いまとなっては思い出せないけれど、楽しかった記憶は、たしかに翔のなかに残っていた。 「お、起きたな。寝ぼすけ」  にひひ、と笑いながら現れた淳史の顔に、思い出のなかの笑顔が重なる。あのころよりもずいぶんと大人びてはいるけれど、楽しかったときをいっしょに過ごした少年の笑顔だ。   「なあ……」    おれはいま、どんな顔をしている? そう聞きかけて、翔はためらう。  かわりに、すこし考えて別のことばを口にした。 「なあ。おれもちょっと、周りを歩いてみようと思うんだけど」 「え」  とたんに、淳史が笑顔を引きつらせる。 「ずいぶん寝て、体が軽いんだ。もうすこし、このあたりを見てみたいと思って」 「や、ちょっと、待って……!」  翔がゆっくりと立ち上がり、歩き出そうとするのに淳史が手を伸ばす。それを避けるでもなく、おとなしく腕をつかまれながら、翔は笑う。 「ちょっと周りを歩くだけだよ。帰り道は、まだ探さない」  まだすこしふらつくから、と翔が付け足せば、淳史は目に見えてほっとしたようだった。 「じゃあ、案内するよ。ひとりでうろついてるときに、面白いものをいくつか見つけてあるからさ」  意気揚々と歩きだす淳史の背を翔は追う。淳史と連れ立っていろいろなところへ行った学生のころのようだと、翔のほほが自然にゆるむ。   「ここ、ここ。この木が変わってるんだ」   「なんだ、この枝。羽みたいなのが生えてるぞ」  四方に薄い羽のようなものを持つ、奇妙な枝を見て純粋におどろき。 「こっちにとっておきのやつがあってな」  急かす淳史に続いて、落ち葉を踏み踏み進んだ先で、息を飲む。 「すごい……きれいだ……」  落ち葉のあいだから顔を出すのは、透き通った白色の花の一群。スイセンに似た花の部分だけでなく、 細く伸びた茎もすべて透き通っている。  あまりにも真っ白なため、茶色い落ち葉のなかで光を放っているように見えた。  そのあとも、淳史が案内するままにあちらの木を見上げ、こちらの木陰をのぞき、と翔はゆったりとした時間を楽しんだ。 「さて、そろそろ戻って夕飯にしようか」  淳史がそう言ったのは、暑い陽射しがやわらかくなったころ。  ずいぶんと歩きまわったような気がしていた翔だけれど、はじめに寝ていた場所はすぐそばにあった。木が生えている水辺を中心に、ぐるりとまわっていただけのようだった。 「すこし、待っててな」  言うが早いか、淳史は木の葉の器を持って駆けていく。先ほど歩いたときには行かなかった、木々の向こうに水汲み場があるのだろう。  その背をじっと見送って、翔は水辺に腰をおろした。ポケットから取り出したハンカチを水につけてしぼり、体をふいていく。  不便だ。  まんぞくに体も清められない現状を不便だと思うけれど、翔にとっては、仕事の合間に急いで浴びるシャワーよりも、よほど気持ちがいいように感じた。    間もなく戻ってきた淳史と囲むにぎやかな食事は、昨日よりも楽しく、たくさん食べられたような気がした。  食後に飲むコーヒーの一杯もないけれど、とりとめもない話をする時間は、なにより満たされているように思えた。  日が落ち、刻々と姿をあらわす星を並んで見上げているだけで、胸が熱くなるようだった。  ひとつひとつのことが、くたびれてしおれていた翔の体に力をくれた。紙切れのように薄くなってしまっていた翔の心を膨らませてくれた。  ありがとう。  そう伝えたくて、けれど胸が詰まってことばにならなくて。暗がりのなか、静かにこぼれた涙に気づかれないように、翔はそっと目を閉じた。      空が白み始めるころ。目を覚ました男は、となりで眠る親友を起こさないように寝床から起き出した。  静かに、けれど迷いない足どりで、男は木々のあいまを抜けていく。背の高い草をかけわけて、一気に開けた男の視界に飛び込んできたのは、想像していたとおりの景色。  それを目にして男は、知らず詰めていた息を吐く。  そこへ、残してきた親友が、息を切らせて駆けてきた。 「翔!」  焦った顔の親友、淳史を振り返って、翔は笑った。 「わかってたよ」  やわらかく笑う翔の背後に広がるのは、ビルと家とで構成された景色。 「わかってた。ここが異世界なんかじゃないってこと」  かすかなクラクションの音が、ふたりの耳に届く。  なんの変哲もない日常の喧騒が、遠くにあった。  不思議な草木に満ちた空間を抜けて、翔は変わらずそこにある街並みを見つけてしまった。  山道から、そこへ続く階段を見つけてしまった。  そのうえ、いままさに階段を登ってくるジャージ姿のひとがいる。 「おー。早いな、お前ら。おれのコレクション、楽しんでるか? 次来るときは早めに言えよ。もっと変わった食い物、用意しといてやるからな」  ジャージ男はにっかり笑ってそう言うと、淳史の肩を力強く叩いて木々のあいだに消えていく。片手にじょうろを持ち、背負ったリュックから刈り込みばさみや鎌がのぞいていたから、きっとこれから不思議な植物たちの世話をするのだろう。  見たこともない植物の持ち主と、見たこともない果物の提供元がバレたことで、淳史はがっくりと肩を落とした。   「……ごめん。だまそうと思ってやったんじゃないんだ。ただ、翔のことが心配で……」 「ひさしぶりに、きちんと息が吸えた気がした」  うなだれる親友に、翔がぽつりとつぶやく。  ここが異世界などではないことは、ほんとうはすぐにわかっていた。  夜空の人工衛星は隠せないし、サイレンを止めることもできない。見たこともない草木でいくら囲っても、現実からは逃げ切れない。  けれど、見えないふりをした。聞こえないふりをした。親友が用意してくれた異世界から出たくなくて、ここが仕事漬けの日々に続いているのだと認めたくなくて、足を鈍らせたのは、翔自身だ。 「休みを、とるよ」  ありがとう、はやっぱり照れくさくて、代わりのことばを口にした翔はほがらかにわらう。 「いきなりいまの仕事をやめる、っていうのは難しいから。毎週、休みをとるとこからはじめるよ」  仕事は量をこなしてこそ一人前だ、と言ういまの職場では、きっと非難されるだろう。もしかしたら、また知らずのうちに追いつめられてしまうかもしれない。  でも、たぶんもう大丈夫だ、と翔は思えた。  楽しかった日は遠い昔のように思えるけれど、きっと今日につながっている。だったら、いくらへこんでも、どれだけしおれても、つぶれてしまうことはないはずだ、と。 「おれ、仕事ばっかりで遊び方も忘れてしまったから。休みの日には、遊んでくれよな。ここの植物の名前も、教えてくれよ」  翔がおどけて言えば、淳史はぱあっと表情を明るくして大きくうなずく。 「ああ。ああ、任せろ! 来週の休み、おれはあいてるぞ。なにして遊ぶ? 何時から遊ぶ? ここでキャンプもいいな。さっきのひと、おれの知り合いなんだけどな。言えば、喜んで植物の説明もしてくれるぞ」  嬉しそうに了承した親友は、早くも次の予定を立てはじめている。それに応える翔の顔は、いくらかくたびれてはいたけれど、高校生のころのように明るい笑いに満ちていた。
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