1.団子坂の弁当屋〈前編〉

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1.団子坂の弁当屋〈前編〉

 ――いつからそこにあったのだろう。  団子坂という可愛らしい名からは意外なほどに、そこは急な傾斜が続く。その坂道の途中に、店はあった。  店、というのは正確ではないかもしれない。なぜならそれは、店舗ではなく、車だったからだ。コロンとしたフォルムの、小さなワゴン車。中央ががばっと窓のように開いていて、何やら看板がついている。  遠い空に浮かぶ三日月のほのかな光の中でも、ベージュと茶色に塗られたその車からもれている、オレンジ色のあたたかな灯りは目を引いた。中には店主らしき人影。客はいないようだ。  ――キッチンカー、というのだったか。  正式な名称は知らないが、移動販売車の一種のようだ。和也の勤め先である写真館の、近所のショッピングモールにときどき、クレープやコーヒー、軽食などを販売する車が来ているのを見かけたことがある。ただ、和也はもっぱら昼はコンビニ派だ。立ち寄ったことはなかった。 ――昨日は、なかった気がする。いや、あったのかな。気づかなかっただけだろうか。  毎日通勤に使う駅と、自宅の間を結ぶ坂道である。車通りも少ない道に、こんなに目立つ移動販売車があれば気づかないはずがない。とはいえ、自信はなかった。何しろ、きつい傾斜の坂道である。朝、駅へ向かう下り坂ならいざ知らず、自宅であるアパートへ帰る上り坂は、けっこうきつい。運動不足気味の和也は、足元を見ながらやっとこさ歩いている。そもそも帰宅時はへとへとに疲れているのだ。  今日気づいたのは、香りのせいだった。肌寒くなってきた空気とともに、あたたかでやわらかな甘い匂いが漂っていたのだ。  なんとなく懐かしいその匂いにふと顔をあげると、その店はあった。ぐう、と盛大に腹が鳴り、和也は焦って辺りを見回した。幸い、歩いている人はいない。  帰宅したところで、冷蔵庫にあるのは昨日の残りのへたくそな野菜炒め(肉なし)しかない。いつもはここから少し先にあるスーパーで、値引きされた弁当を買っている。今日は月末、ちょっと財布が厳しい。しかし、車から漂う香りにたまらなくそそられる。覗くだけ、と和也は思った。高かったら買わなければいい。  近づいていくと、素朴な黒板に書いてある文字が見えてきた。「待月屋」。手書きである。おそらくこれが店名だろう。オレンジ色の裸電球が、その三文字を優しく照らしている。絵になるな、と和也は思った。被写体を気にしてしまうのは職業柄だ。 ――まちづき、と読むのか?それとも、たいげつ?他の読み方があるんだろうか。  カメラ一筋生きてきた和也には、正解がわからない。頭を悩ますのも嫌だ。疲れていたので、思案は振り払った。  ふと、車内の人影が顔を上げた。白いトレーナーに紺色のエプロンを身に着けたその人は、背の高い青年だった。32歳の和也より、いくらか若いようだ。せいぜい20代なかばといったところか。頭にまいた水色の手ぬぐいの隙間から、黒髪がはねている。くせ毛のようだ。  清潔そうな、優しいたれ目が細められ、こんばんは、と青年は軽く会釈をした。和也もつられて頭を下げる。 「いい夜ですね」  やわらかいがよく通る声で、青年が言った。  和也はそれに頷きながら、ちらりと店先を見る。500円、としか書いていない。何が売っているのか、メニューもないし、他の値札もない。写真もない。何屋なのかも分からない。でも、人懐こそうな青年の笑顔につられ、和也は正直な言葉をこぼした。 「あの、いい匂いですね」  青年はそれに嬉しそうに頷き、「今日はカレイの煮つけなんです」とだけ答えた。 「え?」 「あ、すいません。初めてですもんね。うちは弁当屋です。毎日僕の気まぐれで、弁当を作ってるんです。今日は、マガレイのいいのがあったので、煮つけにしました」  振り返りながらそう言う青年の視線の先に、香り立つ湯気。匂いの元は、そこからだ。そうか、カレイの煮物か。あの甘いようなしょっぱいような、懐かしい匂いは。和也は喉が鳴った。ほかほかの煮魚なんて、ここ数年食べていない。 「あの、おいくらですか」 「あ、うちは毎回500円なんです。ご飯と、メインのおかずと、付け合わせと、味噌汁がつきます」  え、安くないか?和也は耳を疑った。ご飯と味噌汁までついてるとなると、それは簡単な定食だ。500円は破格である。 「か、買います買います!」 「ありがとうございます」  にっこりして、青年はいくつかのプラスチック容器を取り出すと、盛り付けをはじめた。まずは付け合わせから。あれは――ひじきの煮物だろうか。嬉しい。子どものころは苦手だったのに、今では好物になっているものだ。たまにスーパーで買う。つづいて、ご飯だ。ジャーの蓋を開けると、炊き立ての甘い香りと白い湯気が目の前に流れてきた。  盛り付けをする青年に、和也はつい尋ねたくなった。 「あの。前からこの店ってありました?俺、毎日ここ通ってるんですけど、初めてみました」 「ここは、だいたい週に2回くらいかなあ。ここのご隠居さんが、ひいきにして下さってて」  後ろの小さな家を顎で示しながら、青年は嬉しそうに言った。ご隠居さん、なんて古風な言葉を久しぶりに聞いた。自分より年下の若者だが、何かが自分とは違うな、と和也は思った。  カレイの煮物と湯気立つ味噌汁(今日はほうれん草だそうだ)はフタをしめられ、袋にきちんと詰められていった。500円ぴったり(なんと消費税込みだった)を受け取り、あたたかな袋を手渡しつつ、青年は微笑んだ。 「次は来週の火曜日にまた来ます。もしよかったら、またお立ち寄りください」   ◆ ◆ ◆
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