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何日か前に、仕事に行くのをやめた。あんなに就活を頑張ったのに、なんの挨拶もなく、ただ、行かなくなった。連絡も来ない。
それから寝てばかりいる。やらなくてはいけないことも、やりたいこともたくさんあるのに、やろう、と思うと、体を起こせない。
テレビをつけたりネットを見る気にもならず、好きな音楽を聴く気にも何度も読み返した文庫本を手に取る気も起らず、ずっと寝ている。お腹がすいたらそこにあるものを適当に食べる。喉が渇いたら水道水を飲む。米はまだ残っているけど炊く気になれない。カップ麺さえお湯を沸かす気になれず、そのままばりばり齧っている。食べられないことはない。食べられないことはない、という程度のものを、なんで食べなくちゃいけないのか。考えだすとずーんと暗いものが頭にかかってきて、無理やり押し込み、そのまま寝た。歯も磨いていない。口のなかが不快で、体も重くてだるくて不快で、でもその不快さにも慣れてきて、安心感を覚え始めている。
ずいぶん洗濯もしていないので、自分の体臭がずっしりと布団にしみ込んでいる。よく知っている。知りすぎている。うとましいけど安心する。そういうものしかない。昔の人間は、こんなふうに暮らしていたんだろうか。洞窟で、一人でこもって、寝てばかりで。でもそういう架空の人間にも、うまく感情を乗せられない。その人は生きるためにそうしていたのだろう。自分とは、違う。全部違う。頭蓋骨のなかのどこかがかゆくてイライラする。
もう終わりにしたい、と思って、スマホを見た。充電があと二十八パーセントで、充電器はそこにあるのに、繋ぐのが億劫だった。日付を見る。明日。明日だ。そう思う。自分のなかに何かの感情がまだ残っているのかと怯えるような期待するような気分でいたけれど、何もなかった。あるいは煮詰め過ぎた感情が、重ったるく底にたまっていて、取り出せなくなっている。みんなどうしてるだろうか。底をかき回すように考えてみても、何も浮かび上がってはこない。かかわりのあった一人一人の顔も特に思い浮かばない。全部がごちゃまぜになった印象だけがぼうっとある。
目を閉じる。ぼんやりしてくる。こういうのが自分なんだな、と、思う。弱かった。自分で思っているよりも。自分がそうなりたかったよりも。ずっとずっと、弱かった。そのことにもう失望はしない。眠りたい。何かに負けたともあまり思わない。眠りたい。
スマホが鳴った。習慣で、出て、出なければよかった、と思った。
「もしもし?」
誰だ。聞き覚えがあるかないかもわからない声。声を出せずにいると、向こうが続けて聞いてくる。
「もしもし? 元気?」
元気? と聞きながら、自分で笑ってしまっている。
「あ……それなりに」
自分の声を久しぶりに聞いた。それなりに、と言いながら、笑ってしまう。向こうも笑う。その声に聞き覚えがあるような、ないような。
「明日だね」
「うん」
はい、と迷って、うん、にした。
「やり残したことある?」
「いや……」
「そっか」
笑っている。楽しそうな耳に心地よい笑い声で、つられて笑った。
「楽しかった?」
「うん」
答えてから、そうか、と思った。楽しかった。たいしたことなんかなかったし、弱い人間だったけど、それでも楽しかった。
「じゃあ、よかったね」
「うん」
「おやすみ」
「うん。おやすみ」
電話が切れそうになる。その前に、ほんの少しだけ、勇気を出した。
「また電話するね」
無言。
しまった、と思う。間違えた。布団のなかで、わけもなくごそごそする。
「……うん」
小さな声が、電話から聞こえた。すすり泣いているようだった。
「またね」
そして、電話は切れた。誰だったのか。まだ思い出せない。画面にはただ番号が映っている。覚えのない番号。誰だったんだろう。本当に、知らない相手だったのかもしれない。わからない。わからなくていい。
涙が出た。涙が出る理由もわからないまま、嗚咽した。顔がかゆい。目やにをこする。喉が痛い。息が詰まる。
だらしなく泣いて、だらしなく泣き続けて、泣き止むことがなかなかできない。眠たい。寝てしまうだろう。目をつむって、祈った。泥みたいな心の中で、その祈りだけは、小さく、でもぴかぴかと光っていた。祈ってどうなるとも思えない。それでもただ、祈った。
明日になっても、世界が終わりませんように。
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