王妃の手紙

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 ああ、いいのですよ。わたくしが涙を流すのはこの部屋でのみ。トゥトと睦みあった寝室を、わたくしは生涯涙で満たすと決めたのです。わたくしの嘆きを知るのは、そこに控えているノフレトとお前だけ。この清らかな涙の一滴とて、神官や宰相に見せはしません。  さあ、先を急ぎましょう。空が白み始める前にお前を王宮から出さなくてはなりませんからね。  王の治世十年、トゥトは18になりました。祖父の代から仕える宰相アイの補佐を受けながら、トゥトは精力的に政に取り組み、独り立ちの日が間近であることは誰の目にも明らかでした。トゥトとわたくしは、父の死後に味わった屈辱を晴らすべく、いよいよ動き出そうとしていたのです。  事件が起きたのは、そんな活気に溢れたある日の午後のことでした。水浴びをし、後宮で王の帰りを待っていたわたくしの耳に女官長の悲鳴のような叫びが飛び込んだのです。 「王妃様!王がお怪我を負われました!」足をスカートにもつれさせながら浴室に転がり込んできた女官長の言葉に、わたくしは心臓が鷲掴まれた心地がいたしました。香油を塗っていた侍女を払いのけ、急ぎ身なりを整えさせると、わたくしは王の寝所へ向かいました。  忙しなく出入りする医師や女官を掻き分けた先に、力なく横たわるトゥトの姿があります。赤く染まった亜麻布で巻かれた両脚を見て、わたくしは何事が起きたのか問い正しました。 「王は私と戦車比べをしていて地面に投げ出されたのです」答えたのはホルエムヘブ将軍でした。武勇の誉れ高い若き将軍は大袈裟に震えて膝をつきました。 「次の戦では王御自身が指揮を取るのだと申され、私が戦車の操り方をお教えしておりました。日頃の成果をお試しになると、全速力で馬を駆っておられたところ、手綱が切れてしまったのです。足の骨が折れ、傷が熱をもたらしております」  皆が動揺する中、ホルエムヘブ将軍の弁明はいやに冷静でした。全ての否は己にあると低頭しながら、その声音は少しも震えてはおりません。わたくしは将軍を下がらせ、意識のないトゥトの手を握りました。 「トゥト、将軍の言ったことは本当ですか?戦車比べを持ちかけたのは、本当にあなたの方だったのですか?」  トゥトは熱にうなされるばかりで一向に目を覚そうとはしませんでした。取り乱すわたくしに、宰相のアイが優しげに声をかけます。 「王妃様、王は体力の消耗が激しく、水を必要とされております。どうぞ、王妃様の御手でワインを飲ませて差し上げてくださいませ」  今にして思えば、あの囁きは悪神セトの企みに相違なかったのです。苦しむトゥトを少しでも楽にさせたい一心で、わたくしはアイに手渡されたグラスを傾けました。口移しで飲ませたワインの苦味が、未だにわたくしの胸と臓腑を焼いています。  昼夜を徹した看病の甲斐なく、トゥトは息を引き取りました。魂の離れたトゥトの身体を抱き、わたくしは声なき声で慟哭しました。  太陽の如き熱い抱擁、握り合った手の力強さ、トゥトがわたくしを愛した記憶があまりに鮮やかで———  悲しみに浸る間もなく、王宮では新たな王を誰にするかが話し合われました。わたくしの子は死産でしたし、トゥトは歴代のファラオのように側室を持つことをしませんでしたから、王家の血筋に連なる子どもがおりません。血統を存続させるには、わたくしが他の男と子をなすしかないのです。  では、相手をどうするか。王族の男子はありませんから、貴族の中から候補者を立てなくてはなりません。有力だったのは宰相のアイとホルエムヘブ将軍でした。  歳まわりで言えば、ホルエムヘブ将軍がわたくしの相手に見合います。ですが、あの男は貴族でもなく、近年勢力を伸ばしてきた成り上がり者です。トゥトを死にいたらしめた事故の唯一の証人であり、容疑者でもある。そのような者と沿うなど、わたくしには到底考えられなかったのです。  アイ? お前はアイを見たことがないのですね。確かに、宰相であり「神の父」の称号を持つアイは身分の上ではわたくしの夫になりえるでしょう。でも、あれは老人です。どうしてわたくしとの間に子が作れると言うのでしょう? それに、トゥトの死の間際、アイが用意したワインの味をわたくしは忘れることができません。瀕死のトゥトを確実に葬るため、あのワインにはきっと毒が盛られていたのです。  言ったでしょう? 苦味が未だにわたくしの胸と臓腑を焼いていると。あれは例えなどではなく、わたくしが体感している紛れもない事実なのです。  食事は喉を通らず、時には喀血すらある。医師の見立てなどアイの匙加減でどうとでもなるのです。……わたくしには、あまり時が残されていないのですよ。
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