最後の朝

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ

最後の朝

 金曜日の朝、冷房の効きすぎた部屋で、美梨愛は目覚めると同時にくしゃみをした。 「みーちゃん、起きた?」  母が美梨愛をのぞき込むように見つめている。がばっと起き上がった娘とおでこがぶつかりそうになって、母は笑いながら身をかわした。 「おはよう、お母さん。何時?」 「まだ7時よ。今日は最後の学校でしょ。ゆっくり朝ごはん食べよ」 「朝ごはん何?」 「今日はね~エビフライだよ」  母がおどけたように答えると、美梨愛は顔を顰めた。 「うっそ~、朝からエビフライ? それってお姉ちゃんのリクエストでしょ! あたし、ピザがいいって言ったのにぃ~」  文句を言いながらキッチンに行くと、中学生の姉ががつがつと、皿に盛られたエビフライを食べていた。 「嫌なら食べるな。あたしがもらう」  タルタルソースをたっぷりと盛ったエビフライに齧りつきながら、姉の沙理が言った。  美梨愛は「お姉ちゃん太るよ」と嫌味を言いかけて止めた。この1年でぽっちゃりしていた姉はすっかり痩せている。 「みーちゃんはレモンがいい?」  母が黄色いレモンを冷蔵庫から取り出したので、美梨愛はびっくりした。 「お母さん、レモンあるの? すごい」  昨今、果物は殆ど見かけなくなっていたので、美梨愛は驚いた。 「国産だよ~。2個もらえたから、後でレモンサワー作るの」  母がレモンに包丁をいれると、キッチンいっぱいに柑橘系のみずみずしい香りが広がった。 「いい匂い……」  美梨愛はレモンのかけらを母から受け取って、エビフライに絞りかけた。サクサクした衣にレモンのしずくがしゅっと吸い込まれる。  母はレモンをスライスしながら、目を伏せて静かに呟いた。 「まさに太陽の恵みね」  沙理がにがにがしげに言い返した。 「違う、太陽はあたしたちを裏切った……」  美梨愛は不安そうに姉の様子を伺った。最近の姉は、胃の調子が悪く、食べては吐き戻すことが多くなっていた。 「おねえちゃん、お腹大丈夫?」  沙理は妹をはっとしたように見ると、笑顔で言い返した。 「平気さ。夕飯はピザだからね。お父さんが帰ってきたら、レモンチューハイも一緒に飲むんだ」 「え~、お酒飲むの? お母さん、ここに犯罪者がいま~す」  やがて、自宅前にスクールバスのクラクションが聞こえた。 《○○小学校送迎バスです。山城美梨愛さん、いますか》  車掌のアナウンスがスピーカーから響き渡った。  美梨愛は、母が準備した氷冷された襟巻と紫外線防止のサングラスを装着し、ランドセルを背負った。ランドセルには保冷剤が仕込まれており、国が推奨している暑さ対策は万全だ。  玄関を開けると、容赦なく気温50℃越えの熱気が美梨愛を覆う。国から支給された特殊な断熱材入りの靴のおかげで、地面の熱さには耐えられた。  スクールバスの窓は、遮熱対策で真っ黒にコーティングされており、外からは車内が見えない。美梨愛が乗り込むと。ひんやりと心地良い車内で、児童がわいわいとはしゃいでいる。美梨愛はクラスメイトを見つけて傍に座った。  窓をみると、玄関に母が立っていた。笑顔で手を振っている。車内は見えないのに、それでもバスが出発するまで手を振っている。強烈な日差しに照り付けられた母が心配になる。でも、ここ1年で全児童スクールバス登校になってから、母は毎日こうして見送ってくれる。美梨愛や他の生徒の親も同じだった。そして、児童は、誰の親に対しても皆で手を振り返して、元気よく「いってきま~す!」と叫ぶのだった。遮光ガラスで姿は見えなくても、元気な声は聞こえてるので、母はその声を聴くのが大好きだと言っていた。  美梨愛も、誰よりも大きな声で母に「いってきま~す」と叫んだ。今日は最終登校日だ。最後まで頑張ろうと、美梨愛は思った。  美梨愛の母は、見送りが終わって家に入ると、ふっと意識が遠のく気がした。 「お母さん!」  沙理がペットボトルを持って駆け寄ってくる。  娘に水をぶっかけられる直前に、意識が戻り、ため息をついた。 「ああ、大丈夫」  まだ青ざめた顔色の母を、沙理がさらに青ざめた表情で見つめている。  母はリビングで冷房の風に当たりながら、しばらく休むことにした。  沙理はテレビの電源を入れた。ニュースか過去の番組の再放送しかしていない。 「ねえ、今日って政府の偉い人が何か言うのかな?」 「え、ああそうみたいね。沙理は今日学校どうするの?」  最近は学校も休みがちな沙理に尋ねた。 「学校? ん~どうしようかな。どうせ授業ないし」  スマホをいじりはじめた娘を見て、母は苦笑した。 「スマホ……繋がってるの?」 「ん~ん。写真……見てる」 「そう……」  友人との思い出の写真を見ている娘を、母はじっと見つめた。 「何? 何見てんの?」  母の視線に沙理は顔を顰めた。 「沙理を見てるの」  母の返事に、沙理はスマホを置いて俯いた。 「お母さん……。あたし、もう先に寝てもいいかな……」  沙理の問いに、母はすぐには答えずに目を閉じた。  テレビの画面から、内閣総理大臣の会見の様子が中継されている。 《親愛なる国民の皆さん。おはようございます。本日はこれまで政府が示したガイドラインに沿って、各自、ご家族、お子様や高齢者、または施設、病院における利用者など、自力でお休みになることができない方々への対策をしっかり取られたうえで、夜を迎えるようお願いします。それでは各大臣からの最終談話をお聞きください》  画面は各大臣の短い談話が次々と中継され始めた。 《……電気、ガス、水道などのライフラインについては夜12時をもって終了となります。なお、公的機関の機能は本日昼で止まることになります。これまで我々の生活を支え続けたエッセンシャルワーカーの皆さま、医療、介護、保育関係者の皆さま……ありがとうございました》  沙理は呟いた。 「地球滅亡の日まで仕事してるんだもん。日本人ってすごいよね」  沙理の毒舌に、母はけらけらと笑い声をあげた。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!