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「期待してくれたところ悪いけど、僕は人を殺すまで血を吸っているわけじゃなくてね」
そう言ってマスターは苦笑する。
「なるべく痛みを感じないように強い酒を飲ませて、本人が気づかない内に少し血を分けて貰っている……というコソ泥感覚というか、“蚊”みたいなもんなんだ。まさか翌日病院へ行く程貧血にさせてしまってたなんて、実はショックだったくらいなんだよ」
「え……」
彼女の酔いは大分醒めてしまったのか、目を丸くしてマスターを見つめる。
「僕は人間の血を飲まなきゃ生きていけない体だけど、仕方なく失敬させて貰ってるだけで、出来ることなら飲みたく無いんだ」
彼はカウンターに戻ると、彼女に水の入ったグラスを差し出す。茉莉はそのグラスとマスターを不思議そうな目で交互に眺めながらも、おずおずとグラスへ口をつけた。
「この店は、人間の血をこっそり分けて貰うのに好都合だった。この店の立地なら、お客はそう沢山やって来ないし、強い酒を飲ませば、やがて人間は潰れてしまうしね。そのうちに僕はこっそり血を分けて貰える。でもそんなに皆、すぐには潰れないでしょう? いろんな人間と話をしているうちに、僕はこの仕事と人間が好きになってしまってね」
そう言ってマスターは、最近常連になったという面白い男性客と女性客の話をした。彼らは個々にも面白い人柄だが、偶然二人が同じ日に来店した時、凄く意気投合して、会話がまるで夫婦漫才なのだという。彼らが二人揃うと、ついついこっそり血を分けて貰うのも忘れてしまうのだと、マスターは笑った。
「……」
「だから僕は、人間を殺すのは本意じゃないんだ。貴女にとっては残念なのかもしれないけど」
茉莉はマスターの話を聞きながら、残り少ない水の入ったグラスをぼうっと眺めていた。当てが外れて、脳が麻痺してしまったかのように。
「でもそれは貴女だって同じでしょう?」
「え?」
「貴女が殺したという患者。別に貴女はその患者を殺したかったわけじゃない」
「……」
「たった一度の失敗で、自分がこの世に不必要な人間だと決めつけるのは、少々早過ぎるのでは? 貴女の献身的な看護のおかげで、生き延びた人間の方が沢山いるでしょう?」
「でも……」
「絶対してはならない失敗を犯してしまったから、ですか? 貴女はその失敗した過去を消し去りたいだけであって、自分をこの世から消したいわけじゃないでしょう? 世の中に必要な人間であり続けたいだけで、本当は死にたくないはずだ」
そこまで言うと、彼女の瞳からはとめどなく涙が溢れた。マスターはもう一度カウンターを出て彼女の隣に座ると、涙が止まるまでずっと彼女の頭を優しく撫で続けた。
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