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壁掛け時計はAM3:07。この店の閉店時間はAM4:00、閉店まで一時間を切っていた。
完全に酔いが冷め、涙もすっかり流し終えた茉莉は、十分な睡眠でも取ったかのようにスッキリとした顔をしていた。そんな彼女の前にマスターは小さな紙を置く。そこには今夜の会計金額が書かれていた。
「貴方の秘密を知ってしまった私を、このまま帰してもいいんですか?」
「秘密を喋られたら困りますが……そうなったらまた、別の街の片隅で同じようにこの店を営業するだけですよ」
「じゃあ絶対言いません。また来たいので」
そう言うと茉莉は、飲み代をマスターに払いながらとびきりの笑顔を見せた。その笑顔には、店に訪れた時とは全く真逆の生命力が漲っていた。
「また来てもいいですか?」
「もちろん」
扉へ向かう彼女の後ろを静かにマスターが追う。彼女の為に扉を開けると、目の前には夜空で煌煌と輝く大きな丸い月が現れた。
「うっ……」
思わず呻いたマスターは咄嗟に扉へ寄り掛かったが、あまりの眩暈に立っているのもままならず、思わず片膝を付く。
「大丈夫ですか!?」
茉莉は彼の腕を肩に乗せて担ぐと、立ち上がらせて彼の身体を支える。
「あはは……みっともないところを見せてしまって……」
「強がらないでください。私は看護師ですよ?」
「そうでしたね……。満月の夜は…特に吸血欲が上がるんです。貴女の同僚にバレてしまったのが、非常に恥ずかしいんですが……」
そう言ってマスターは力無く笑った。最初に見た時よりも顔色が青白い気がする。茉莉は一瞬沈思した後、マスターの糸目をまっすぐ見つめ、「私の血を吸ってください」と言った。
「いや、せっかく遠慮したんだから……このまま帰ってください」
「貴方が血を吸ったお客さん達、実は元々酷い貧血気味の方達ばかりなんです」
「え?」
「そうじゃない人達ばかりを狙っていたら、全く気付かなかったかも」
「吸血鬼にアドバイスするなんておかしい人ですね。確かに時々、味がアレな人もいたような気がするけど……。でも実際に吸うまで、その人が貧血かどうかなんてわからないな」
ハハハとまたマスターが力無く笑う。茉莉は急に人差し指で自分の左目の下瞼を捲った。
「私の瞼の裏の色、何色ですか?」
「へ? う~ん、赤い…かな」
「貧血な人は、ここが白いんです」
「!?」
「私は健康的な血ですよ。定期的に献血もしてるくらい」
そう言って今度は力こぶを作って見せる。マスターの糸目がゆっくり見開かれ、そこには月光に照らされた、血のように真っ赤な瞳が輝いていた。
「マスターのおかげで私、明日から頑張って生きていけそうな気がしているんです……だから……」
そこまで聞くとマスターは彼女にふわりと抱き着き、耳元で「ありがとう」と囁いた。そして彼女の首筋へ、優しく牙を立てる。
店前の地上へと続く階段の陰で、彼は彼女の首筋から噴き出す赤い血潮を、思う存分吸い上げる。月明りに照らされた二人の姿は、傍目には熱烈に抱き合っているようにしか見えなかった――
そんなことがあってから、彼女は度々このBAR『Coffin』へ訪れるている。わざと満月の夜に訪れては、彼の前で首筋を差し出すこともあったが、マスターはそれを丁重に断った。彼には密かな夢があったからだ。
それを聞いた彼女は、満月の夜が近づくと献血した自分の血を持って行くことにしている。彼の『いつか人間のようになりたい』という夢を、少しでも応援するために。
<月夜のブラッディ・マリー 完>
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