3.シャンディガフの憂鬱

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「君は随分と苦労したようだね……。今夜みたいな日は、どうして過ごしたんだい?」  それにはすぐに答えず、銀次は出されたシャンディガフをぐびっと煽った。シュワシュワと爽やかな発砲が、波のように口内を駆け巡る。 「女と寝たかな……後腐れないような奴と」 「それ…」 「しょうがねぇじゃねーか……満月の夜はどうしても飢えるんだ。でも寝るだけだぜ? 事件は起こしてない。俺だってもう、命を狙われるのはご免だからな」  マスターと出会う前に一度、銀次は人間の肉を食べてしまったことがある。それは本能からくる衝動的なものではなく、子ども同士の喧嘩の果てに、という感じだった。  その頃の日本は、戦後の傷跡でどの家も貧しかった。銀次は誰に育てられることもなく、文字通り独りだけの力で生活していたが、とは言え小さな子供が働けるわけもなく、木の実や野草、雨露で飢えをしのいだり、必要に応じては人の物を盗んだ。幼い頃のはさほど本能に左右されないので、人肉の味を知らなければ当然、人間と同じものを食すのだ。  戦後の誰もが貧しい世の中で人の子は数多く生まれ、銀次も次第に彼らに埋もれて生活するようになり、仲良く一緒に遊ぶようなこともあった。  しかし銀次は人間ではない。見かけは大差なく見えても、人間と比べれば、遥かに優れた身体能力を持っている。彼の足は速すぎて、人の子と遊んでも圧倒的有利になってしまうのだ。それが不満となって降り積もり、嫉妬となり、やがて幼い人の子らの間で、負の感情となって表面化する。  ある日から銀次は、徒党を組んだ人の子らに虐められるようになった。どうしてそんなことを……と思いはしたが、彼は幼いながらにも、人間と自分は違うという自覚があったので、始めは黙ってそれを耐え忍んだ。しかし、彼を庇おうとした同じ人間の子どもが虐められるのを見た時、とうとう彼の堪忍袋の緒が切れた。  銀次の瞳は瞬間的に怪しく光り、爪や犬歯が伸びて剥き出しになると、喉の奥で低い唸り声をあげた。虐めっ子らはその変貌に恐れおののき、投げていた石を手放して一目散に逃げ出したが、首謀者のガキ大将に狙いを定めた銀次は、その素早い脚で追いついて飛び掛かり、彼の左耳を引きちぎって食べたのだ。  その事実はすぐに村全体へと知れ渡り、数日後、彼の親を中心に組織された大人たちが、「人狼狩り」と称して銀次を探した。中には猟銃まで持ち出す者さえもいた。  銀次はすぐにその村を離れ、それ以来、決して人の肉を食べようとは思わなかった。村の大人たちに追われたのもショックだが、それよりも衝撃的だったのは、ガキ大将の耳を引きちぎった直後、銀次を庇ってくれた人の子が、酷く怯えた目で銀次を見ていたことだった。
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