3.シャンディガフの憂鬱

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 一度人肉の味を知ってしまえば、本能が呼び覚まされ飢えやすくなる。それでも彼はその後、頑として人間を食べなかった。それもあり、Coffinの目の前で行倒れる結果となったわけだが。 「満月の夜に女性と寝るなんて、大丈夫なのかい? 僕なら耐えられそうにないけど」 「あぁ、犬が骨を咥えるのと同じさ。思う存分舐めて甘噛みするだけで、多少の飢えはしのげる」 「骨って……相手は人間だろう? 感情があるじゃないか」 「だから『後腐れない奴』って言ったろ? 向こうだって、こっちが体中舐めてやれば満足するんだから、ギブ&テイクさ」 「そうは言ってもねぇ……。あ…もしかして、そんなことが出来るのはそれのお陰かい?」  マスターが指差した先には、銀次の胸元に光るごついネックレスがあった。ペンダントトップには、銀の弾丸が付いている。  彼の種族にとって銀の弾丸は本能にブレーキをかける。それはマスターにとっての十字架と同じだ。マスターも実は、シャツの下に小さな十字架のペンダントを忍ばせている。多少気分は悪いだろうが、彼らが人間社会で生きていくのに本能を剥き出さない為には、有効な手段なのだ。 「ここを出て暫く経ってから、貰ったんだ。バカな女から」 「馬鹿…ですか」  銀次はGパンのポケットから煙草を一本取り出し、おもむろに火をつけた。口から吐き出された紫煙が、細く長い息を形作る。  銀の弾丸を送った女性はきっと、銀次の正体を知っていたし、彼の苦しみも理解していたのだろう。そんな女性と出会えたことに、嬉しさを感じるマスターだったが、それをはるかに上回るくらい同情もしていた。  彼の寿命は約500年だ。マスターに至ってはもっと長い。そんな彼らが人と同じように生活し、同じように恋をしようとも、彼らと添い遂げられるわけはない。きっと銀次はこの30年間で、人の温もりと同時に人間でないことの辛さや苦しみを、存分に味わってきたのだろう。それでも自暴自棄にならず、人を食さずに人間社会へ上手く溶け込むには、並大抵の努力では済まない。  だから銀次は場所を変え、職を変え、転々と暮らしてきた。それは一所で築き上げた関係をリセットし、誰も知らない場所でまた1からやり直さなければならないという、途方もない労力を幾度となく繰り返すことだ。  そんな中で銀次は、恋愛についてはもう諦めていた。同じ種族の雌に出会い互いに恋が芽生えれば、それはきっと幸せなことだろう。だがマスターも銀次も、種族的に言えば絶滅危惧種に限りなく近い程、同胞の数を失っている。皮肉ではあるが、人間社会が平和であればあるほどに。
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