3.シャンディガフの憂鬱

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 目を開けなくても、何が起こったのか銀次には理解出来た。恐らくマスターが、あの黒い瓶のコルク栓を抜いたのだ。中に入っていた液体の匂いは、人間にはわからないだろうが、嗅覚の鋭い銀次には一瞬で本能を呼び覚まし、狂わす。 「シルバ君、君お酒弱いんだから、今夜はもうそろそろ帰ったらどうかな?」  口調はまるで心配するようなそぶりだが、要に見えないカウンターの陰で、マスターの手は瓶口の上を扇いでいる。匂いが銀次へ届くようにと。 (くそっ! マスターめ。次来た時は覚えてろよ……)  そう思いながらも、銀次は渋々「会計…頼むわ」と素直に従う。ところが、 「マスター、私シルバさん送ろうかな……心配だし」 (えっ……)  驚いて銀次が顔を上げると、仔犬が酷い目に遭ったという話をした時と同じ表情が、そこにはあった。 「大丈夫だよ、要ちゃん。シルバ君はお酒弱いけど、体自体は丈夫だから。夜風に当たればきっとよくなる」  心中で「サディスト吸血鬼め!」と悪態をつくが、銀次はコクリと頷き親指を立てて見せた。 「そう?」 「あぁ、今夜は少し飲みすぎただけだから。また会おうな、要ちゃん」 「……」  少し納得のいかない表情をした彼女を尻目に、取り繕った笑顔で手を振って、銀次は店を後にした。彼がいなくなったことで、急に店内のジャズミュージックがよく聞こえ始める。 「要ちゃん、おかわりする? 良かったら一杯奢るよ」 「ううん……今夜はもう、これ飲んだら帰る」 「そう。それは残念」  銀次の飲んだシャンディガフのグラスを下げつつ、マスターは妙に大人しくなった要を盗み見た。その顔はまだ、残り半分以下となったブラッデイマリーのグラスに目を落とし、憂いを帯びている。 「シルバ君のこと、気になってるの?」 「え……」 「あんまりお薦め出来ないけど」 「何で…そんなこと言うの?」 「彼も、僕と似ているところがあるから……」  そう言うとマスターは力なく笑う。「パートナーに人間を選んでも、幸せには出来ない」という胸の内が、彼女に伝わるわけもなく。しかし要は…… 「それじゃあ、シルバさんも優しいだね」 と言った。思わぬ答えに洗っていたグラスを落としそうになるが、要はカウンターに千円札を置いて、そそくさと席を立つ。 「ごちそうさま。おやすみなさい」  お釣りを用意する間もなく、要は小走りで店を出て行った。釘を刺した筈の言葉が、彼女の背中を押す結果になろうとは……。 「参ったな……」  要の思わぬ評価を反復しながらも、「どうか彼らの出会いが、悲しいものとならないように…」と、今宵の月に祈るしかなかった――
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