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目を開けなくても、何が起こったのか銀次には理解出来た。恐らくマスターが、あの黒い瓶のコルク栓を抜いたのだ。中に入っていた液体の匂いは、人間にはわからないだろうが、嗅覚の鋭い銀次には一瞬で本能を呼び覚まし、狂わす。
「シルバ君、君お酒弱いんだから、今夜はもうそろそろ帰ったらどうかな?」
口調はまるで心配するようなそぶりだが、要に見えないカウンターの陰で、マスターの手は瓶口の上を扇いでいる。匂いが銀次へ届くようにと。
(くそっ! マスターめ。次来た時は覚えてろよ……)
そう思いながらも、銀次は渋々「会計…頼むわ」と素直に従う。ところが、
「マスター、私シルバさん送ろうかな……心配だし」
(えっ……)
驚いて銀次が顔を上げると、仔犬が酷い目に遭ったという話をした時と同じ表情が、そこにはあった。
「大丈夫だよ、要ちゃん。シルバ君はお酒弱いけど、体自体は丈夫だから。夜風に当たればきっとよくなる」
心中で「サディスト吸血鬼め!」と悪態をつくが、銀次はコクリと頷き親指を立てて見せた。
「そう?」
「あぁ、今夜は少し飲みすぎただけだから。また会おうな、要ちゃん」
「……」
少し納得のいかない表情をした彼女を尻目に、取り繕った笑顔で手を振って、銀次は店を後にした。彼がいなくなったことで、急に店内のジャズミュージックがよく聞こえ始める。
「要ちゃん、おかわりする? 良かったら一杯奢るよ」
「ううん……今夜はもう、これ飲んだら帰る」
「そう。それは残念」
銀次の飲んだシャンディガフのグラスを下げつつ、マスターは妙に大人しくなった要を盗み見た。その顔はまだ、残り半分以下となったブラッデイマリーのグラスに目を落とし、憂いを帯びている。
「シルバ君のこと、気になってるの?」
「え……」
「あんまりお薦め出来ないけど」
「何で…そんなこと言うの?」
「彼も、僕と似ているところがあるから……」
そう言うとマスターは力なく笑う。「パートナーに人間を選んでも、幸せには出来ない」という胸の内が、彼女に伝わるわけもなく。しかし要は……
「それじゃあ、シルバさんも優しい人だね」
と言った。思わぬ答えに洗っていたグラスを落としそうになるが、要はカウンターに千円札を置いて、そそくさと席を立つ。
「ごちそうさま。おやすみなさい」
お釣りを用意する間もなく、要は小走りで店を出て行った。釘を刺した筈の言葉が、彼女の背中を押す結果になろうとは……。
「参ったな……」
要の思わぬ評価を反復しながらも、「どうか彼らの出会いが、悲しいものとならないように…」と、今宵の月に祈るしかなかった――
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