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私が六十になった頃、結婚した息子に子が出来た。私と千代にとって、初めての孫だった。
その頃の私は、小さいながらも会社を立ち上げていた。田町工務店と名付けた。最初は私と千代、大工の弟子入りをしてきた石山と共に、三人だけだった。
千代は几帳面に出納帳をつけ、金銭の管理を行った。石山は元々口が達者だったので、営業もやってのけた。そして気が付けば会社は少しずつ規模を拡大させ、二十人の職員を雇える程になった。
沢山の人に助けられたのだと思う。近所の小さなスナックバー「あけみ」のママも、その一人だ。朴訥とした私の代わりに、ママは様々な人脈を紹介してくれた。お陰で、田町工務店は個人の住宅だけでなく、大きな施設建設にも関わらせて貰えるようになった。
私はママに感謝していた。ママは大きな目に細い顎が特徴的な、五十過ぎの女だった。
あけみに通うペースは少しずつ増え、次第に毎週末通うようになっていた。私が行くと、いつもママはビールを一杯サービスしてくれた。
ある日、私はいつものようにあけみを訪れていた。
「孫が出来てね」
私がそう言うと、ママは「あら」と目を見開いた。
「おじいちゃんになるの」
「そうみたいだ」
「息子さん、たまには帰って来る?」
「あいつはたまにしか顔を出さない。嫁は、何日かに一回は来る」
「いいお嫁さんね。ありがたい事じゃない」
「出来た嫁だ。洋介は良い嫁を貰った」
そこまで言うと、ママは「甲四郎さんの奥様も、良い奥様でしょう」と茶化した。
「どうだろうな」
ママに言われ、ふと千代の顔を思い出す。
そういえば近頃、機嫌が悪い日が増えた気がする。若い頃はいつもおたふくのように朗らかだったが、余り笑わなくなった。いつからだろうか、と思い返すも、分からない。毎日が面白くなさそうだ。
「ママみたいに、常に綺麗にしてくれていたら良かったけどな」
冗談で返せば、ママが笑う。男好きする色気のある女だ、と思った。男の束の間の癒しだ。お陰で、あけみには固定の客が付いている。小さくても、それなりに繁盛しているのだろう。
日付が変わる頃、他の客も居なくなったので、私も店を後にする事にした。ママは店の電気を消し、「外まで送るわ」と立ち上がった。
その時、建物のドアが勢いよく開け放たれた。現れたのは、顔を般若のように歪ませた千代だった。
「何だ、お前」
驚きの余り、私の声が上擦った。
「それはこっちの台詞です」
激しい口調で怒鳴られ、私は一歩後退りした。すると、千代のすぐ後ろから、息子の嫁が姿を現した。
「お義父さん、こんな所で何をされてるんですか」
「悦子さん」
そちらこそ何をしているのだと問おうとすれば、千代の被っていた帽子が飛んできた。手袋も飛んできた。千代の剣幕に、私も言葉を飲み込まざるをえない。
悦子さんが言った。
「毎週のように飲みに歩くのは、私もどうかと思います」
悦子さんは、完全に千代の味方をしているようだ。
「お義母さんは、お店の方や他のお客さんの迷惑になってはいけないと、今までこの時間、外で待っていたんです。お店の電気が消えるまで待つ、と言って。心配なので、私も先程来ました。洋介さんも一緒です」
悦子さんに言われ、外を見ると、息子の姿が確認できた。
「悦子さんは妊婦だから、来なくていいって言ったんですけどね。私の事が心配で来てくれたんですよ。それもこれも、あなたが頻繁に夜遊びするからです」
千代が薄い眉を吊り上げて言った。私の背後では、ママが黙って様子を伺っている。
「それは、すまなかった」
私が言うと、「一言謝って済む問題ですか」と、千代が怒鳴る。悦子さんが「お義母さん、落ち着いて」と間に入る。息子が呆れた顔をしている。
この日から私は、外に飲みに出るのをやめた。
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