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 孫が十歳になった頃、私は会社の経営権を息子に譲ることにした。第一線から退いた私に待っているのは、夫婦の穏やかな毎日。それだけだと思っていた。 「さて、忙しくなりそうですね」  その日、千代は玄関で毛むくじゃらな獣を撫でながら言った。赤色の首輪が良く似合う、真っ白な柴犬。まだ一歳にも満たない仔犬だ。  その犬は、息子の家で飼われていた。まだ成犬になっていないせいか、動く物全てに纏わりついてくる。その犬を「うちで飼えなくなった」と連れて来たのは、息子自身だ。どうやら孫が犬アレルギーを発症してしまったらしい。私は動物を飼う事は反対だったが、千代が面倒を見ると請け負ってしまったせいで、我が家に新しい家族が増える事になった。名前は、福助と名付けた。  福助の世話は、思った以上に大変だった。福助は、朝早くから散歩の催促をする。仕方なく外に出れば、あちこちの匂いを嗅ぎ、走り回る。時折、私の方を振り返って、嬉しそうに尻尾を振る。そうかと思えば、鳥や猫を見つけて走り出す。私は、足が縺れて転ばないように必死だった。  やっとの思いで家に帰れば、千代が福助に餌を与える。福助は食い意地がはっているらしく、与えられた食事はいつも数秒で平らげていた。少し目を離した隙に、食卓のおかずを盗む事もあった。  そんな日々を過ごしている間に、福助は年を取った。犬の成長は、人間に比べたら一瞬だ。あっという間に成犬となり、少し落ち着いてきたかと思った頃には、老犬と呼ばれる年になっていた。  福助は、癌になってしまった。獣医に骨肉腫と診断され、足を切断する手術を提案された。老犬に大きな手術をさせるのも酷なようだが、私は福助の生命力に賭ける事にした。  手術前、麻酔の注射を打たれた福助は、じっと私達夫婦を見つめてきた。潤んだ瞳が段々と力をなくし、体が脱力する。それでもまた私達を見ようとして、顔を上げる。閉じかけた瞳の中に、私達の顔が映る。  福助が小さく鳴いた。か細い遠吠えだった。真っ暗な闇に吸い込まれる中、私達を呼んでいる。千代が「福ちゃん」と言った。 「頑張って帰ってきて。必ず帰ってきて」  千代の細い目から、涙が零れる。乾燥した手で、福助の体を撫でている。 「お肉を茹でて、待ってるからね。だから絶対に生きて帰って来て」  約束、と千代が懇願する。私も福助の前脚を強く握った。  手術は成功したのだろうか。或いは失敗だったのだろうか。福助は、死んだ。老体が麻酔に耐える事が出来ず、そのまま手術中に息絶えてしまった。  千代は、動物病院の待合室で、大きな声を上げて泣いた。叫ぶように泣いた。まだ僅かに温かい福助の体を抱いて、泣いた。  雨が窓ガラスを叩く音がする。にわか雨が降り始めたようだった。私は、黙って獣医に頭を下げた。  福助の首には、長い年月を共に過ごした赤い首輪が付けられている。金具部分には、千代が手作りした御守りが付いていた。刺繍で、健康祈願と書かれていた。  福助が死んでから、千代は持ち主の居ない餌入れを眺める事が増えていた。時折、遺品の首輪に触れ、考え事をしているようだったが、私には何も言わなかった。  それからまた暫くした日の事だ。 「福ちゃんを見送れて、良かったと思うんですよ」  洗濯物を干し終わった千代が、ぽつりと言った。私は庭の草むしりをしていた。  言われている内容の意味が分からなくて、私は怪訝な顔をした。 「何だ」 「もし私達が福ちゃんより早く死んだら、福ちゃんは一人ぼっちになってしまいます。福ちゃんに悲しい思いをさせてしまいますから」  千代は、飼い主である自分達が福助を弔う事が出来て幸せだ、と言った。 「そうだな」  それだけ返して、私は草むしりを再開させた。日差しがじりじりと私の腕を焼いていく。皺が沢山刻まれた、枯れた老木のような手だ。  生きていれば、誰かの死を見聞きする事はある。死の瞬間に立ち会う事もある。それが人生だ。生きているものは、いつか死ぬ。それが世の中の理だ。  私と千代も、いつかは死ぬ。どちらかが先に死ぬ。結婚していれば、伴侶を見送る日はいずれ来る。相手の死すらも自分の人生の一部だと認める時が、絶対に来る。それは理解している。  千代は現状を柔軟に受け入れる力がある女だ。もしかしたら、福助の死をも、己の人生の一部として刻んでいるのかもしれない。ただ、私には、まだそれが出来そうもなかった。
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