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5
千代が倒れた。いつも早起きの千代が珍しく寝坊していると思ったら、千代は布団の中で冷や汗を掻き、意識を失っていた。
千代は近所の総合病院に入院する事になった。腎癌だった。医者には、手術を勧められた。福助が死んで、まだ半年も経たない頃だった。
また福助と同じ事になったらどうするべきか。千代も若くはない。果たして老体が手術に耐えられるのか。
私は医者に即答出来なかった。ただ呆然と説明だけを聞いていた。何度も千代と福助の姿が脳裏を過ぎる。すると、一緒に医者の話を聞いていた息子が「親父」と私を呼んだ。
「手術に同意しよう」
何も返せずに息子の顔を見る。息子は「何を迷っているんだ」と、やや苛立った様子で言った。
数日後、千代は手術をした。手術自体は成功した。麻酔中に息が途絶える事もなかった。ただ、手術そのものが手遅れだった。腹を割って中を見てみれば、すでに癌は膀胱まで侵食し、リンパにも転移していると分かった。
これ以上の積極的な治療が見込めず、千代は緩和病棟へと転院した。暫くは眠っている事が多かったが、数日したら「切ったお腹が痛い」と笑って話せるようになった。だが、それも長続きしなかった。「全身が痛い」「夜に眠れない」という訴えが増えた。痛み軽減の為、麻薬投与するようになった。食事も食べなくなった。息が浅くなり、酸素マスクを付ける事も増えた。また眠る事が増えた。そして、殆ど喋らなくなった。
私は毎日、千代の様子を伺いに病院に通った。不自由な足で自転車をこいで行くのは楽ではなかったが、それよりも千代の方が辛いのだと思えば、耐える事ができた。毎日通っていたら、私の願いが誰かに届き、千代に奇跡が起きないだろうかと、そんな望みを抱きもした。
看護師に頼み、千代の世話もさせて貰った。タオルで顔を拭いたり、手足のマッサージをした。部屋の掃除や、シーツの交換も覚えた。中でも一番苦戦したのが、おむつの交換だ。千代は随分と痩せてきていたが、それでも人一人分の体重は重く、手間取る事が多かった。私が不器用なせいで、衣類を汚してしまう事もあったが、懸命に挑んだ。
私は毎日必死だった。だから、その日が来たのもあっという間だった。千代に癌が見付かって、二ヶ月半経った頃だ。いつものように病院に着いた私は、千代の病室の前が騒がしい事に気が付いた。
「田町さん、奥さんの血圧が下がっています。脈も余り触れなくなっています」
言われた瞬間、頭が真っ白になった。いつかこの日が来るとは分かっていたが、それが今日だとは思っていなかった。何の確証もなく今日は大丈夫だと信じ、日が一日経つと、今日も大丈夫だと信じ込む。そんな事ばかり繰り返していた。
日常が崩れる感覚があった。病室に入ると、千代の傍に二人の看護師が居た。不揃いな機械音が響いている。千代の心臓が、少しずつその働きを終えようとしている音だ。
「千代」
私は名を呼んだ。千代からの返事はない。当たり前だ。ここ最近はずっと、千代の声を聞いていない。それでも返事が欲しかった。
「千代」
声が震えた。私の声は、こんなにも頼り無かっただろうか。こんなにも情けないものだったろうか。
千代に初めて会った日の事は、今でも鮮明に思い出せる。千代は、決して器量良しとは言えなかった。しかし、おたふくのように愛嬌があった。
初めての妊娠。ひどい悪阻。自分の持ち物を全て売り、子を産む決断をした千代。裸足になって産婆を呼びに走り、死産を経験した。その後の、二度目の妊娠。待望の出産。千代は、祝いに買ってやった白いサンダルを嬉しそうに抱えていた。
名の売れぬ大工の会社を大きくする事にも尽力してくれた。私がスナックに通っていた頃、初めて嫉妬して激昂もした。あの頃の千代は笑顔が少なかったが、私がスナック通いをやめてからは、またおたふくの笑顔が復活した。
時が経ち、老後。福助という犬との生活。そして、今。千代は私の元を離れ、手の届かない所へ行こうとしている。
ほんのり温かい千代の手を握る。まだ生きている。生きている筈なのに、もう傍には居ない気がする。胸が苦しい。胃が噎せ返るようだ。頭が痛い。眩暈までする。足に力が入らない。
千代。六十年前、私に嫁いできた妻。お前は、私に色々な感情を教えてくれた。欠陥だらけの私に、家族を与え、仕事を与え、愛を与え、一人前以上の幸せを与えてくれた。私にこの世の全てを与えてくれた。
それが今や、私を不幸のどん底に落とそうとしているのは、他の誰でもない。お前だ。お前が居なくなると思うだけで、これまでの鮮やかな人生が黒塗りされるのだ。
だから、頼む。千代、頼むから。頼むから、私を置いていかないでくれ。
私は泣いた。人目も憚らず、泣いた。千代に縋りついた。お願いだから、お願いだから。私は繰り返し願った。この世に神が居るのならば、どうか千代を助けて欲しい。他には何も望まない。
知らぬ間に、医者が傍に立っていた。千代の瞼を持ち上げ、ペンライトの光を眼球に当てる。手を首に当て、胸に当て、最後に聴診器で確認した。それから、私に向かって言った。
「残念ですが」
そこから後の事は、もう覚えていない。
「結婚なんてするんじゃなかった」
おたふくの面影が残る顔を見詰めながら、小さく呟く。
この選択に、後悔しか残っていない。こんな苦しみを味わうくらいならば、出会いたくなかった。一生一人でも良かったのだ。
私にこの世の全てを教えてくれた千代。私の妻。唯一の伴侶。私を残して死んでしまったお前が、憎くて堪らない程に、ただ愛しい。
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