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10
俺が仕事で家を出ている時、少しずつ落ち着いてきたのかミノルはケインとモナに大人しく世話を焼かれていた。未だ不用意に声をかけるとビクリと怯えてしまうが、ちゃんと視界に入った所から話しかければ普通に返事もしてくれる様になった。
熱のせいで動けなかった事もあるかもしれないが、それでも「すいません」「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にするのだと聞いた。
たいした事はしていないのにミノル様がそれを口にする度、どれだけ今までお辛い目に合っていたのかと胸が苦しくなります、と先日もモナに告げられた。
仕事から戻るとミノルはベッドから「おかえりなさい」と声をかけてくれる。
それが嬉しくて最近は毎日仕事を終えれば早めの帰宅を心掛けた。ウトウトしていても頑張って起きてくれる事に心が満たされる。
夕食は俺の手で食べさせたくて、ミノルにも食べられそうな物を俺が膝に抱えて食べさせていた。一生懸命咀嚼する姿に目を細めてしまう。
それが終われば俺が身体を拭き、少し話をしながらベッドに寝かしつけていた。
ミノルが「寂しい」と思わない様に毎晩胸の中に抱き締めて眠っている。
もうこれ以上ミノルに辛い事がない様に、寂しい事がない様に。
俺の側にいて幸せだと思って欲しい。俺の事を必要だと思って欲しい。
腕の中の温もりを感じながらそんな事を思っていた。
ミノルの事はまだ何もわからない。
わかっているのは「ライカ」で働き酷い目に合っていた事、成人している事、黒い髪と瞳を持っているから何処か遠い所から来ただろうという事……。それだけだ。
貴族ではない事は所作でわかる。色も勿論だが、誰かに傅かれた事は無かっただろう。いつも俺や屋敷の者に何かされるのを遠慮し、恐縮する。そして小さく困った様に「ありがとうございます」と言うのだ。
ミノルがライカとどんな繋がりがあるのか。知らなければいけないのはわかっている。
しかしまだそれを確かめる勇気が無かった。熱が下がって落ち着いてからと先延ばしにしていた。
半分は本音だ。しかし残りの半分は……。
屋敷に戻ると、すぐにケインに上着を預けその足で寝室に向かうのがここ最近の日課になった。
今まで寝る時以外には殆ど入らなかった場所だが、今では事あるごとに足を運んでいる。
「おかえりなさいグレン」
寝室に入るといつもベッドの中から声をかけてくれるミノルが、今日はベッドから起きて扉まで歩いて出迎えてくれた。
はじめの頃、目の下にあった隈は今はもう随分と薄くなった。頬も少しだけふっくらしてきて、血行も良くなってきているのか青白さは鳴りを潜め、ミノルの元々の愛らしさを引き立てだした。
日々その変化を確認出来るのが嬉しいし楽しみだった。
「ただいま」
今朝はもう随分と熱も下がっていたが起きていても大丈夫なのだろうか。挨拶もそこそこにミノルの顔を持ち上げた。屈んで自分の額をミノルのそれへ付けると熱は大分落ち着いている事がわかった。
これも今は毎日の習慣になっている。その度にミノルが少しくすぐったそうにして顔を赤らめてくれるのが嬉しくて、ミノルが健康になっても毎日したいと思う程だ。
「熱も大分落ち着いたか」
「……も、もうだいじょぶだよ」
鼻が触れそうな距離で微笑めば、ミノルは首まで真っ赤になっだ。
「身体の調子はどうだ?」
するとミノルの口角が少し上がった。最近見せてくれる様になったこの表情は満面の笑みには遠いが、それでも想像していた以上の愛らしさがあり胸の奥に甘く刺さる。
「あのね……モナさんが熱も下がったからもう動いてもいいって」
それを側で聞いていたケインは違います、とすかさず口を挟んだ。
「ミノル様、モナは動いてもいいではなくて寝ていなくてもいいと言ったんですよ」
「同じじゃ……」
「違いますね」
ケインにやんわりと、しかししっかりと再度否定された事でミノルからしゅんと笑顔が消えてしまった。
だって、でもと小さく口から漏れているが歯向かうつもりではなくただ納得していないだけだろう。
「着替えてくるから待ってろ」
残念そうにしているミノルの頬をひと撫でし、部屋を出ようとすると軽くシャツの裾を引かれた。
「あ、あのさグレン……俺もうご飯一人で食べられるから」
「まだ駄目だ。俺がやる」
「でも」
「まだ手には包帯が巻かれているだろう」
「でももう痛くない」
「駄目だ。まだ包帯を巻いているのは安静にしてろという事だ。モナ、いつもの様に食事はここで」
「かしこまりました」
「もう平気なのに」
少しずつミノルは自分の気持ちを主張する事が出来る様になってきた。それだけ心も回復しているという事だ。ミノルの世話をする楽しさを知るともっとゆっくり静養して欲しいと思ってしまう。
「ミノル様、主はミノル様の事を心配なさっているのですよ」
「……はい」
サイドテーブルには少し多めの夕飯が置かれる。食器は一人前だが中身はそれよりも多い。
ミノルがそんなに食べられないと知っているモナの提案だった。
ミノルには食事を残す事が罪悪なのだろうか、残してごめんなさいとポロポロと涙をこぼしたのを見てからこの仕様になった。
俺がいない時には籠に盛ったパンと果物、スープを与え、残りは他の使用人が食べるので残しても問題ないとケインが納得させた。
自分の分としてではなく、俺の夕飯から少しもらうという形はミノルにとっても罪悪感がないらしい。
それでも少しずつ量を増やしてはいるのだが、俺からしたらまだまだ少食だ。
「おいでミノル」
「うん」
いつもの様にベッドの上で胡座をかき両手を広げるとミノルは素直に膝の上に乗る。ミノルの食事の合間に自分もそれを口へと運ぶ。
匙にスープを掬いミノルの口へと運ぶと、その小さい口を開けてそれを含んだ。
「うまいか」
「うん」
「ほら、今度は肉だ。あーんしろ」
「あー……」
「どうだ?」
固形物を食べる時はすぐに飲み込めない様で、もぐもぐと一生懸命咀嚼している姿は小動物の様だ。時間を掛けて飲み込むとジトリとこちらを見上げた。
「どうした?」
「……美味しいけど……質問が早い」
「そうか?」
「もっとゆっくり聞いて」
「わかった……もっと食べろ」
「あー……」
そのやり取りに側に控えていたモナが呆れたように笑っていた。
「もう熱も下がったな」
「うん、グレンとケインさんとモナさんのお陰だよ。ありがとう」
俺にしては少し早い時間の就寝、今夜もミノルを胸の中に閉じ込める様に抱き締めると、小さいミノルは腕の中にすっぽりと収まる。
腕の中のミノルは足は伸ばしていても両手はいつも握りしめたまま自分の胸元にきゅっと縮こませていた。
今までの生活がそうさせるのだろうか。それともミノルにとって俺はまだ信用出来ない相手なのか。
俺もミノルの事は心の奥では信用しきれてはいない。感情では守りたいと思うが、警備隊としてはまだ手放しで守るとは言い切れないのだ。ミノルにもそれが伝わってしまうのかもしれない。
『お前もミノルとライカの繋がりがどんな物か気になっているんだろ?』
サーキスの言葉通りだ。
俺はまだミノルが何故あの店にいたのかを知らない。何故黒を持つミノルが貴族街にいたのか、死にたいと寂しいと思う程辛い生活をしていたのか。ミノルにあの店に勤めていた理由を聞かなければいけない。警備隊としても……俺自身も、ミノルの口からライカの一連の悪事とは関わりがない事を話して欲しいと思う。
あの二人が何処に住んでいるのか。何故ミノルは辛い目に合ってもあの店に勤めていたのか。
話したくない事かもしれない。しかし聞かなければいけない。
どう切り出せばミノルがそれに答えてくれるだろう。
「あのさグレン……」
そんな事を考えていると、モゾモゾと動いたミノルは顔を胸に埋めたまま小さく声を出した。
「どうした?」
「俺、明日ここを出るよ」
ここを出る……?
突然の言葉に一瞬戸惑う。死にたいとまで願ってしまう程の辛い生活に戻るというのか。
「……何故」
やっと出た言葉は絞り出す様な声になる。そうまでして戻らなければいけない理由があるのか。それはあの二人の元へ戻りたいという事なのだろうか。
そこまで「ライカ」と深く関わっているのか。
ミノルの『ここを出る』という言葉に自分は驚く程動揺していた。
「だってもう熱は下がったし……これ以上世話になる訳にはいかないよ」
「まだ包帯も取れてないだろう」
言葉に苛立ちが孕んでいるのが自分でもわかった。まだミノルがここを出ると言い出すとは思っていなかったのだ。いや、思いたくなかった。
辛い生活に敢えて戻りたいと言い出す事があれば、それは「ライカ」との関わりの為なのかもしれないと。
関わりがあるならばいずれここを出ると言い出すかもしれないとは少なからず思っていた。
ミノルの言葉はその可能性を秘めているものだった。
だが、まだ決めつけるのは尚早だ。
そんなことはない。ミノルは自ら関わってはいないはずだ……そう思うのは己の願望だからだろうか。
「もう大丈夫だよ、俺グレンにもう迷惑かけらんないもん。ちゃんと仕事して治療費とか返さなきゃ」
「治療費などいらない」
そんなものはいらない。俺はお前がいれば、お前が笑って過ごしてくれるならそれでいいのだ。
俺の側で今までの辛さを忘れて穏やかに過ごして欲しいのだ。
たった数日一緒にいただけの少年に何故か心が揺さぶられる。
「駄目だよ、ちゃんとお金は払う。手持ちはあんまりないけど何年かかっても返すから」
「ミノルは金なんてあるのか?」
「う……」
食事も出来ない程の生活をしていたミノルは給金すらまともにもらえていなかったと言っていた。それなのに金を払うと言うのはその言葉の裏に何かあるのだろうかと勘繰ってしまう。
「……ゼロではないよ。住んでた所に少しだけ置いてある」
住んでた場所、それを初めて口に出した。もしかしたらそこにはライカ達もいるのかもしれない。
ミノルの生活していた場所がわかればあの二人の手掛かりが掴めるかもしれない。
警備隊としての経験がミノルを追い詰めようとしている。
しかし俺自身はミノルにここから出て行って欲しくないと思う。
「寂しい」と言っていたミノルを信じたかった。
「ミノルは今まで何処に住んでいた?」
「何処、って言われると難しいな……」
「……言えない様な所なのか」
「……うん」
懸念していた事が形になってムクムクと沸き上がる。言えないとはどういう事なのだ。またあいつらの所に戻って行くというのか。
ライカでお前は何をするのか。
「何故言えない」
「だって……」
色んな思いが苛立ちとなりミノルを責める様な重い鋭い口調となってしまう。
どんな顔をしてその言葉を言うのか。
苛立ちと怒りが隠せないままミノルの顔を無理矢理こちらへ向けると、眉尻が下がり困っている表情のように見える。
ミノルがどういう気持ちでそれを口にしたのかますますわからなくなった。何故生きるのが辛いと、死にたいと思わせる程の場所に自ら戻ると言うのか。
もしもお前がライカと関わっているのなら、俺がお前を見捨てなければいけないのだ。そんな事はしたくない。
ミノルを俺が守りたい。だが、住む場所を話せないと言うならば警備隊としてそれを問い詰めなければいけない。お前と「ライカ」の関わりを俺が暴かなければいけないのだ。
「なら余計に外には出せない」
「でも……」
「外に出るなら俺と一緒だ」
「一緒?」
「逃げ出したりしない様にな」
お前を犯罪者として差し出すのは苦しい。しかし警備隊として隠蔽する事は許されない。
「逃げはしないけど……」
「言えない様な所に住んでいたんだろ」
ミノルは何故教えてくれないのか。
その場所にあの二人はいるのだろうか。お前は二人の元へ帰りたいのか。
出ていくなんて言うな。お前にはライカと関わっていて欲しくない。お前を苦しめていた場所には戻せない。お前を苦しめている場所へなど戻したくないんだ。
俺はお前を……放したくない。
ミノルはうーん、と更に困った表情になった。
何を困る事がある?俺に話せない場所へなど一人で行かせる訳にはいかない。
「言えないっていうか……道順は覚えてるけど、そこの呼び名とか住所とか知らないから説明するのは難しい」
「言えないとはそういう……?」
「うん」
思ってもみなかったミノルの言葉は俺を驚かすのに充分だった。
話さない訳ではなく、話せないから言えないとは。
まだミノルを手放さなくてもいい可能性に俺の苛立ちは霧散した。
ミノルの言葉ひとつでこんなにも心が揺さぶられてしまう事に呆れてしまう程だ。俺はいつの間にこんなにもミノルに執着していたのかと可笑しくなってしまう。
「なら尚更一緒に行かねばな」
「何で?」
「お前はこの屋敷が何処にあるのかもわからないだろう?」
「……確かに」
ミノルは初めてそれに気付いたのか、ハッとした表情になった。
「明日お前がわかりそうな所まで連れて行く。お前の住んでいる場所を教えてくれ」
「……うん、わかった。でもグレン、仕事は?」
「これも仕事の一環だ」
仕事と言うと今度はキョトンとして顔を少し傾けた。
ミノルには何の事かわからないだろう。俺にはお前があの二人と共謀していないか確認をしなければいけない義務があるなどとは言えない。
このまま言わずに済めばいい。あの店にたまたま居ただけであって欲しい。明日、ミノルの手を手放さずそのまままた二人でこの屋敷に戻れたらいいと願ってしまう。
「ほら、もう寝ろ」
まだ不思議そうにしていたミノルの鼻先へと唇を寄せた。
一瞬で真っ赤になったミノルが可愛らしくてぶわりと感情が揺れる。そっとまた胸の中へと閉じ込めながらも心の中は波がさざめく。
その顔は見えなくなってしまったが、逃げずに俺の腕の中にいる。
それがとても嬉しかった。
私情で判断してはいけないが、きっとミノルなら悪事に荷担するなんて事は無いだろう。あの場所で働いていた事もきっと何か理由があるはずだ。
ここ数日だがミノルに接していて思うのはミノルは人と接するのが怖いという事と慣れればとても素直な少年だという事だ。
貴族とも違う、しかし平民にしては所作が丁寧なミノルが今までどうやって生きてきたのか、何故あの店で働く事になったのか。
明日になればミノルの住んでいた場所がわかる。そこから何か得る物があるだろう。
それがミノルにとって辛くなければいい。
……俺が、ミノルとこのまま一緒に生活出来る結果になればいい。
翌日、ミノルはうちに来てから初めて外へ出た。
今までどんな場所にいたのかわからなかったのだろう。初めて見た屋敷の外観に呆然としている。
初めて見た口を開けて呆けている様子が可愛らしい子供の様で少し笑いそうになってしまった。
しかしミノルは成人していた事を思い出し、それをグッと堪えてミノルを外へと連れ出した。
今日のミノルの着ている服はケインが用意してくれた物だ。シンプルな白いシャツに明るめの紺色のズボン。ミノルの黒にとてもよく似合っている。
外へ出る為に上からフード付きの上着を羽織るとミノルの愛らしさが益々強調されて思わず抱き締めたくなってしまった。
初めて会った時に着ていたクタクタの変わった服は裾も襟足も汚れて擦りきれていた。
あの服も一応ミノルの黒を隠す事は出来たが、あの格好で貴族街を歩いていたのがとても奇妙に思えた。
あの服は何処の国の物かもわからない。人が怖いと言っていたミノルがそんな目立つ格好で歩いていた事に矛盾を感じる。
俺はまだミノルの事を何も知らない。だけどミノルの事を何よりも信じたかった。
まだ体力のなさそうなミノルに馬車で行こうと勧めると、体力をつけたいから運動がてら歩きたいと言う。心配だったが、疲れてしまったら俺が抱き上げて運べばいいな、と無理に馬車に乗せる事はしなかった。
店の近くの通りまで行くと、ここからなら戻れると言うミノルの道案内で一緒に歩いた。
ミノルは無意識か人の目を避ける様に道の隅を歩いて極力目立たない様にしているようだ。
隠れる様にこそこそ歩くミノルのゆっくりとした歩みに合わせて貴族街を歩く。
周りは当たり前だが貴族が歩いていて店も並びいかにも貴族という出で立ちの人達が悠然と歩いている。
王家の色に近い金の髪と碧い瞳を持つ彼らにミノルはどう映っていたのだろう。中身を見ずに上っ面だけで自分の地位を決める彼らの中でどれだけ辛い目に合ったのか。
ミノルは足元を見ながら少しでも目立たない様にと隅を歩く。決して前や横を見なかった。
それがミノルの扱いがどんなものだったのかをあらわしていた。
予想に反してミノルが疲れたと泣きを入れる事はなかった。抱き上げる必要がないのは喜ばしい事だが少しだけ残念に思う。
俺達は貴族街を抜け、平民街への道と合流する道を素通りし、山へと続く道をひたすら歩いていた。
そろそろ一時間程歩いただろうか。この先にはもう人が住む場所はない。
遠い昔、山の麓に住んでいた者は皆生活の為にこの地を捨て街へと移住したはずだ。道を挟んでポツポツ残る家の残骸はその名残。
この道の先には山しかない。もしやこの先にはライカ達の隠れ家でもあるのだろうか。しかしあの二人が山へと隠れるとは思えなかった。ではミノルは一体何処へ向かって歩いているのだろう。あの店からここまで来るのにも随分と歩いている。
不思議に思っているとピタリとミノルの足が止まった。周りには倒壊した家がポツポツとあるばかりの何も無い場所だ。
疲れたのかとミノルを見るとミノルも俺の顔を見上げ、ある一点を指差した。
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