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4
「何処に行くの?」
問いかけてもグレンは無言のまま歩き続けた。
だけど怒っている様子もなくて、俺もそれ以上は何も言わずにその後をただ付いていった。
グレンの歩幅はきっと俺よりも全然大きくて歩くのも早そうなのに、えっちらおっちら歩く俺に合わせて随分とゆっくりな気がする。これでも以前よりもちゃんと食事も摂らせてもらって体力も付いたと思うけど、持久力はまだなくて俺の歩みはやっぱり遅い。
それでもちゃんと俺に負担がかからない様に歩いてくれるグレンの優しさにじんとする。
今ずっと無言でも気にならない。今までずっと人の機嫌を伺いながら過ごしていたのにグレンなら大丈夫だと不思議とそう思えた。
暫く歩くと街へ出た。
街はどことなく活気づいていて賑やかでとても明るく、道の両側にはお店や屋台が立ち並び沢山の人が闊歩している。
フードの下から覗く景色は足元しか見えないが、それだけでも活気に溢れている事はわかった。
ざわざわと賑やかな人の喧騒に驚きながらもたついて歩く俺の手を引いたグレンは、この通りに慣れているのか上手く人波を避けながら歩く。
もうひとつの道はどうやら普通の人達……庶民の街への道だったようだ。
こんなに活気ある場所は初めてだった。
今まで通っていた街は酷く保守的で、店の人も貴族もこんなに賑やかに歩いていた事はなかった。どちらかというと気を張り、見栄を張り、虚勢を張って歩く人達ばかりだったように思う。俺はそれが怖くていつも隠れるようにして歩いていた。
ここは沢山の人達が普通に楽しそうに歩いている。こんな活気ある中に自分がいるのがとても不思議だ。
ここでは誰も俺の事を知らない。誰も俺の黒を知らないからこの街なかですれ違っても誰も気にする事はない。
俺が髪も目も真っ黒な、気持ち悪い色を持っている事を誰も知らない。
異質な自分は果たしてここにいていいのだろうか。
こんなちっぽけな自分が酷く浮いている様に感じる。こんな明るい場所にいるのが場違いな気がする。
俺なんかがこんな場所にいてはいけないのではないか。
そんな事を考えながら歩いていたら段々と怖くなり、その足取りも重くなる。
俺が黒を持っていると知られてしまったら……またあんな目で見られてしまったら……。
ぐるぐると巡る思考に、重くなった足はとうとうその場に止まってしまった。
「ミノル?どうした」
俺に合わせて歩いていたグレンの足も止まり、心配そうに顔を覗きこまれた。
「駄目だ」
「駄目……?」
「俺……こんな明るい所……」
俺の黒は明るい場所では目立つ。異質な黒はすぐに蔑まされて弾かれてしまう。
クズと呼ばれていた自分。笑いながら殴られて、それでも逆らう事なんて出来なかった。
今は明るく自然に楽しく笑う人達の顔も、コートの中の俺の黒を知ったらすぐにその表情を曇らせて、笑いを嘲笑に変えてしまう。そして彼らは当然の様に笑いながら殴ったり蹴ったりするのだ。
俺はそれをこの世界でもう何度となく味わった。
「無理だよ……」
グレンにお金を返さなきゃいけないのはわかってる。だけど、それ以上に人の反応が怖くなってしまって、仕事どころか今はこの一歩すら踏み出せない。
グレンから、グレンの屋敷の人達から優しさをもらってしまったから、ひとときでも幸せを知ってしまったから……以前の様に耐える事が出来なくなってしまった。
幸せなひとときは以前の辛さを浮き彫りにして、よりあの怖さを、苦しさを際立たせてしまった。
自分の黒が誰かの幸せな時間を壊してしまうのが怖い。それを責められるのはもっと怖い。理不尽に痛め付けられるのは辛くて苦しくて。この世界に来てから今までずっと耐えていた事を思い出すとその恐ろしさに身体が震え出した。
以前は耐える事が出来たのに、今はとても恐ろしいと感じる。
こんなに弱くなってしまったらもう駄目だ。前を向く事さえ出来ないのだから。
「俺、誰かに気持ち悪がられるのも、気持ち悪いと罵られるのも本当は嫌なんだ……酷い言葉も暴力も全部、怖い……」
ただがむしゃらに生きていた時は気付かなかった……気付く前に考えないようにしてた。
気持ち悪いと蔑まれて見下される視線だって、黒いというだけで受けなければいけない理不尽な暴力だって、ひとりぼっちでそれに耐えながらこの世界で生きていくのだって……本当はずっと怖かった。
だけど俺はきっと生きてるだけで誰かを嫌な気持ちにさせて、皆それに怒ってしまう……俺が黒いせいで。ただ黒を持っているというだけで。
「ミノル」
「やだ、怖い……」
もう俺の足は一歩も動かす事が出来なかった。ここにいるのが怖くてたまらないのに、逃げ出そうにも全く動く事が出来ない。
「ミノル」
「怖いよ……」
「ミノル」
優しいグレンの声は、助けてもらってからずっと俺の心を温めてくれた。だけどそれに答えられない自分はなんて弱いのか。
身体の芯から冷えて震えが止まらない。立っているのもやっとで、今動いたらそのまま倒れてしまいそうだった。
俺の手を掴んでいるグレンの手が唯一の支えだ。
その優しさに甘えている俺は何て卑怯なんだろう。この手を離して逃げ出したいのに離せない。もう心はぐちゃぐちゃだ。
「大丈夫だ」
繋いでいた手を引き寄せられて、俺の身体はグレンの胸へと倒れこみ、そのまましっかりと抱き締められた。
「ミノル、大丈夫だから」
繰り返し優しく名前を呼ばれても、まだ震えは止まらない。
「離して……」
「離さない」
グレンの腕に力がこもり、小さい俺はグレンにすっぽりと隠れてしまった。その苦しくなる程の包容に、全てから守ってもらえている錯覚を起こす。その優しさを勘違いしちゃいけないのに甘えてしまいたくなる。
離れなきゃいけないのに……離れたくなくなってしまう。
「この町には色んな人がいる。貴族街の様に色で人を差別する事などない」
「嘘だ……」
だってあんなに気持ち悪がられて毛嫌いされて、当たり前の様に殴られたり蹴られたりしたんだ。少し離れた場所でそんなに扱いが簡単に変わるなんて信じられない。
「ほらミノル、道行く人達を見てみろ」
グレンの言葉にその腕の中からそっと顔を上げ、フードの隙間から周りを見た。
「あ……」
視界に入る人達の髪の色は金色も多いけれど、茶色や赤っぽい色、青っぽい色など明るかったり暗かったりと様々な色に溢れている。
話したり笑ったり、街の人達は誰もが楽しそうに生活しているのがわかる。
そこには色を気にしている人は誰もいなかった。
「確かにこの国には黒を持つ者はいない。だけど俺はミノルの黒が好きだ。ミノルが黒い瞳から溢れる涙はとても美しい。嬉しい時に遠慮がちに微笑むのが好きだ」
「……グレン?」
「だから、逃げずに……俺の側にいてくれ……帰るなんて言うな」
縋る様な切羽詰まった声に思わず顔を上げると、そこにはまた眉間に皺を寄せたグレンがいる。苦しそうな泣き出しそうな顔だ。
「頼む」
グレンが俺の黒を好きだと言う。その表情はきっと嘘などついていない。
本当にここでは俺は忌避される事はないのだろうか。もう気持ち悪いと蔑まされないのだろうか。
俺はもう一人であの廃屋に戻らなくてもいいのだろうか。
グレンの言葉を……グレンを信じてもいいのだろうか。
こんな俺でもこの世界で許されるのだろうか。
俺は二人の間に潰されていた自分の手をぎゅっと握った。
「……」
グレンが逃げなかったら。嫌がらなかったら。
これは賭けだ。
人は咄嗟の動きに本音が出る。
自分しかない俺は自分で全てを決めなければいけない。
手が震える。
お願い……どうか、どうか。
俺がもぞもぞと動くとグレンは腕の力を少し緩めた。動く事が出来る様になった俺の手は上へ伸び、そのままグレンの眉間に指を当てた。
グレンは俺のする事を不思議そうな顔をして見ていたが、されるまま動かなかった。
「ん?どうした」
どうして……?
嫌な人に顔を触られるなんて誰もが嫌がる事なのに、グレンはそのまま動かない。なんなら少し笑っている。
この手が避けられると思っていた俺はグレンの反応に逆に固まってしまった。
避けられて、思い切り振り払われると思っていたのに。
ねえグレン、何で逃げないの?俺が触って嫌じゃないの?
グレンは気にせずに笑ってくれる。嫌だなんて思ってない。
「何かついてるか?」
動かない俺の指をまだ不思議そうに見ている。
グレンなら……信じられる気がする。俺が今この世界で一番大切な優しい人。
「眉間の皺……跡ついちゃうよ」
誤魔化す様にその跡を指で撫でてみる。
その皺も俺が原因なんだよね。ごめんねグレン。本当に俺を心配してくれてたんだね。
「皺か……じゃあこれからミノルが側にいて気を付けてくれればいい」
「……そうする」
困った様に笑っていたグレンは俺の言葉に驚いて目を見開いた。
「ミノル……?」
「俺……グレンの側にいても許される?」
「当たり前だ。俺がミノルに側にいて欲しい……俺こそミノルの側にいる事を許してもらえるか?」
グレンは額にあった俺の手を取り、その手首に唇で触れた。
とても恥ずかしかったけど、グレンが真っ直ぐな笑顔を向けてくれるから俺も素直に嬉しくなった。
初めてこの世界で俺を受け入れてくれてたグレン。
気持ち悪いと蔑まされていた俺に手を差し伸べてくれた。
こんな異質な俺を理解してくれようとしてくれた。
俺の目を見て笑ってくれるグレンの碧い瞳はとても綺麗だ。
いつも真っ直ぐに俺を見てくれる。その優しさが嘘じゃないって教えてくれる。
グレンがいてくれたから今俺はこうしてここで生きている。グレンのお陰で漸く俺はこの世界でちゃんと人として生きる事を許されたのかもしれない。
「俺……グレンの為に何も出来ないよ」
「俺はお前が側にいてくれるならそれでいい」
「いいの?俺なんかが側にいたら凄く迷惑かかる」
「ミノルがいてくれないと俺が辛い」
「ほんとに……いいの?」
「何処にも行くな。辛い思いをしてくれるな。俺の側で生きてくれ」
力強い碧い瞳が真っ直ぐに俺を見つめる。
逸らさずに見つめてくれるその瞳を見るのが好きだ。
その瞳に俺が映る。嬉しいと泣き出しそうな俺がいる。
「……俺もずっとグレンといたい。グレンの側にいたいよ……」
「ありがとう、ミノル」
またグレンはぎゅうっと俺を抱き締めた。
この温もりを手放さなくてもいいんだ。グレンと離れなくてもいいんだ……。
それが嬉しくて、俺は初めてグレンの背に手を回した。
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