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第22話 死んだ女
「実は――」
教師にも詳細に話してないことを、葉山さんに話す。何だか卑怯な気がした。
誠がわたしと別れない理由、そしてプロポーズまでの一連の話を。
テーブルの上にはまだ天麩羅が残っていたけれど、もうお腹いっぱいで、明日、天丼にしようと考えた。
「ずいぶん都合のいい話だね。だって向こうはずっと浮気してたわけでしょう? 個人的な事情とは関係ないじゃない」
「はい……」
「それで揺れてるわけだ」
「揺れてるというか、迷ってるというか。簡単に忘れられないっていうのはどうしてもあって、それは短期間ではどうにもできそうにないし」
「いいじゃない。心の中で決着がつくまではその男を待たせておけばいい」
「でも単身赴任で――」
「金沢さんを本当に愛してるなら待つでしょう。まして金沢さん無しで生きていけないって言うならさ」
それが大人の考え方なのかと思った。
だけどそれまで、待たせてる間、ずっとここに居るわけにはいかないと思った。ふたりを天秤にかけるような状態で、ここに居るわけにはいかない。
いま、この場に大家は不在だけど。
「金沢さんさ、いっぺんにいろんなことが起こってるっていうのはわかるんだけどね、急ぎすぎじゃない? どうしてそんなに急ぐの? 引っ越しの期日まであと一週間ある。逆算すれば出てきてからまだ十日だ。大切なことを決めるには早過ぎない? 一度、落ち着きなよ。元カレのことをよく整理して考えて、待たせるくらいが丁度いい。相手の誠意が見えるからね」
「……わかってはいるんだけどいろんなことがいっぱい起こるし。先生は何も言ってくれないし」
「耀二? アイツは寡黙ってやつだから普段はあんまり喋らないよ。特に自分の意見は」
「でもそれじゃ何もわかんない。わたしが結婚しちゃっても先生は構わないの?」
ガタッと大きな音がして、教師がお風呂を上がったのだとわかる。わたしは慌ててティッシュを掴んで涙を拭いた。
葉山さんは困った顔をしていた。
「それであんなこと言ってから風呂に行ったの?」
頷く。酷く恥ずかしかったけれど、わたしの心はボロボロだった。
「いつから? 金沢さんには悪いけど耀二にもいろいろあるんだよ。勿論、金沢さんが結婚を迫ったわけじゃないのはわかってる。でも耀二はたぶん、それをいま考えてる。――君たち何なの? 再会して数日でしょう?」
「キス、して――」
「耀二から!?」
「あれは弾みだったのかもしれないけど、わたしの中では消しゴムで簡単に消せないって言うか」
ああ、と葉山さんはなお困った顔をした。
どう言ったものか考えているようだった。
「恋の始まりってやつか」
足音が近づいてくる。葉山さんは黙ったままで、わたしはいそいそと座卓の上の片付けを始めた。
「引っ越しの相談は?」
「うん、いま詰めてるとこだよ」
「来週にするのか?」
「パソコンだけ先に持ってきちゃおうかって話」
それもいいかもな、と教師は麦茶ではなくビールを喉を鳴らしてごくごく飲んだ。それはとても美味しそうに見えた。まるで真夏のCMのように。
ただ葉山さんだけが真っ青になった。教師はぐでん、と下を向いた。
「俺は有結の結婚に対してあれこれ言える立場じゃない。そう、まだ何も言えない。でも教師として言うなら、そんな不誠実な男は忘れてしまえ。転勤するならなおいい。そんな男はどこかに行ってしまえばいいんだ。お前みたいに純粋な人間になんて酷い仕打ちだ。お前が許しても俺は許さない。俺は何も言えない立場だ。お前への態度も煮え切らない。けど――」
言葉はそこで切れた。
葉山さんが声をかけて体を揺さぶった。ピクリともしない。どうやら酔いが回ってしまったらしい。困ったな、と言いながら葉山さんが奥の部屋まで教師を引きずって行った。慌てて客用の布団を敷いた。
「なんだよアイツ、まったく。俺には何も相談しないで」
「はぁ」
じっと見られて、目の奥まで見られたような気分になる。そこは心の奥に直結している。
「どうなの? ふたりはできてるの? 時間は関係ないさ、こんな時には」
「わかりません、わたしには」
「……耀二は君のことを以前話してくれたことがある。教師をしてた頃の話だよ。あの話はたぶん、金沢さんのことだと思う。――その子は花が開いたような絵を描くんだって。それは俺の理想の絵なんだって」
「そんなにすごくありません」
ふぅ、と葉山さんは大人のため息をついた。その目はもう遠くを見ていた。
「無意識に君に恋をしてたのかもね。だから街中で普通なら見つからない君を見つけてしまった。心の中でずっと忘れられなかったものに出会ってしまったんじゃないかな?」
「わたしはそんなんじゃありません」
「金沢さん、耀二を好きじゃないなら離れてあげて。それが自然だよ」
「わたしは……」
返事ができなかった。
葉山さんは今夜は教師の部屋で寝ることになった。まったくいい迷惑だよ、と彼は言った。
まったくいい迷惑だ。わたしへの態度を保留にして――。
失恋して弱ってる女を落とすのは男の常套手段じゃないか。なのにどうして。
「先生」
寝ている背中に手をかけて小さく呼びかける。大きな体を丸めるようにして教師は眠っていた。
「先生」
もう一度だけ声をかけて、だめならもう寝ようと思った。
「先生……」
「有結、なんだ眠れないのか」
寝ぼけた声で教師は答えた。わたしはとってもうれしくなってしまって、次の言葉を選んだ。何を言おう、それを言おう、どうしようと。
「先生、そばにいてくれてありがとうございます」
「気にするな、寝なさい」
パタン、と教師は顔を横に向けて眠ってしまった。
わたしはその上から教師に覆いかぶさった。重かったかもしれないし、どちらにしても迷惑だったかもしれない。
教師の体からはわたしと同じメンソールのタバコの香りがツンと匂った。安心できる匂いだ。わたしは彼だけに聞こえる声でこう言った。
「先生、どこにも行きたくない。このままここにずっといたい」と。
教師は姿勢を変えて薄目でわたしを確認すると「どこにも行くな、って言いたいんだが、自信が無いんだよ」と太い指先でわたしの目頭から目尻を拭った。
「……むかし、女を死なせてしまったことがあってな」
「え?」
何かの冗談だと思った。或いは何かの喩え。
「好きな女がいたんだ。大切にしてるつもりだった。でも実のところ、アイツは俺の知らないところで勝手に傷ついていて、そして死んだ」
要領の得ない話だった。まるでなんのことなのかわからなかった。酔っ払ってるから、夢の中なんだろうか……。現実味がない。
「俺は怖い。女は知らないところで傷つく。それを今度は気づいて守ってやれるのか自信が無いんだよ」
そうなんですか、と間の抜けた答えをしてしまった。教師の恐れが自分に降りかかるとは思えなかったからだ。わたしは知らないところで傷ついたりしない。心の奥底でそっと傷つくほど、繊細ではない、と言いたかった。
「先生、わたしはそんな風に傷ついたりはしません。図太いから」
「……約束できるか?」
「はい」
「それなら」
「はい」
「……いけすかない男のプロポーズは断って、ふたりで……」
いいところだったのに。まったくだめな教師だ。
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