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1話
「……すまない。シェリア。君以外に愛する人ができた」
そうわたくしにおっしゃったのは婚約者でこの国――フオルド王国の第一王子で王太子でもあるエリック・フォルド様だ。
彼の傍らには子爵令嬢でこの王立学園に最近、転入してきたアリシアーナ・フェンディ嬢がいる。
エリック様は黄金の髪と深みのある蒼の瞳が印象的な美男子であられる。背も高く体格もすらりとなさっていて武芸もかなりの腕前のお方だ。頭脳も明晰でいらして文武両道とはこの事かと言いたくなる。
対して、傍らでエリック様こと殿下の後ろに隠れるようにしてこちらを見つめるアリシアーナ嬢は柔らかそうな栗毛の髪に茶色の瞳の儚げで可愛らしい少女だった。
「エリック殿下。愛する人というのはそちらの三年生のアリシアーナさんですか?」
「そうだ。アリシアを愛してしまった。君の事は女性としては見れずにいて悪いとは思っている」
ちなみにわたくし達がいるのは学園の裏庭である。殿下とアリシアーナ嬢がわたくしのクラス、つまりは教室にまでついさっきやってきた。
そして、話があるとだけ言われて連れてこられたのがこの場所だった。着いた直後に言われたのが「愛する人ができた」というものになる。
わたくしは悪いと言いながら目を伏せるエリック殿下を見つめる。わたくしの固めの藍色のまっすぐな髪がふいに立った一陣の風に巻き上げられる。エリック殿下やアリシアーナ嬢の髪も同様にしていく。
わたくしは海のようなエリック殿下の瞳を見て彼の想いは戻りそうにない事を悟った。
「…わかりました。わたくしからはとやかく言いません。ただ、婚約は破棄にさせていただきます。お二人共、お幸せに」
「あの。シェリア様。本当にありがとうございます。わたしと殿下の事を認めてくださるんですね」
わたくしが立ち去ろうと背中を向けた時に今まで黙っていたアリシアーナ嬢が声をかけてきた。けどわたくしは小首を傾げた。
「あら、わたくしから殿下を盗っておいてよくそんな事が言えますね。アリシアさん、わたくしは殿下から好意を持たれていない事がわかったから身を引いただけでしてよ。認めたとは一言も申しておりません」
ほのかに笑いながらつけあがるなという意味合いの言葉を告げた。するとアリシアーナ嬢は顔を青ざめさせて後ずさった。
「…ご、ごめんなさい。わたしてっきり二人の仲を認めてくださったから婚約破棄するのだとばかり思っていました。違うのですか?」
「…違います。わたくしは幼い頃より殿下をお慕いしておりました。けど、殿下はわたくしではなく貴方を選ばれた。本当は貴方に報復といきたいところですけど。そんな事をしてもわたくしが惨めなだけ。だから身を退くのです。では殿下。失礼します」
わたくしは殿下とアリシアーナ嬢に一礼をすると裏庭を後にした。
あれから、わたくしは婚約破棄をするためにいろんな手続きをして書状を王城に提出した。
時間はかかったが。婚約破棄は受理されてわたくしことシェリア・フィーラとエリック殿下の結婚は白紙になった。
これに一番驚いて落ち込んだのが我が父、フィーラ公爵だった。母も落胆していて婚約破棄した直後はさめざめと泣いていた程だ。わたくしも落ち込みはしたけれど。両親ほどではなかった。
むしろ清々したというか。わたくしは何も悪い事はやっていない。まあ、殿下やアリシアーナ嬢の前で報復という言葉を使いはしたが。挙げるとすればそれくらいだ。わたくしは婚約が駄目になっただけなので父や母と話し合い、王立学園は通い続ける事にした。
寮にまた戻らないといけない。だが、両親の勧めもあってわたくしは半月ほどは実家に滞在する事になった。表向きは体調不良により療養するというものだった。
それに異議を唱えず、おとなしく実家療養という名の謹慎をする事にした。
「…ああ、お嬢様。おいたわしや。まさか、王太子殿下との婚約が白紙にされるだなんて。この世は何とお嬢様に冷たいのでしょう」
おいおいと泣いているのはわたくしの侍女で寮にも付いてきてくれていたメイアである。彼女はわたくしの小さい頃から仕えてくれていた数少ない侍女だ。
メイアは普段は穏やかで落ち着いた感じの子なのだが。一旦、感情が高ぶるとなかなか手がつけられない。今もそうでわたくしが大丈夫だと言っても聞く耳を持たずにいた。知らない間にわたくしはため息をついた。
メイアが嘆くのは当然としても学園でわたくしとエリック殿下の間がどう囁かれているのかは友人にでも聞いてみないとわからないのが現状だった。
「…メイア。今は落ち着いて。もしよければお菓子を持ってきてもらいたいの。あなたが作ったベリーパイが良いと思うのだけど」
にっこりと笑顔で言うとメイアはまだ、泣き腫らした目でこちらを見つめた。ふうと息をついて、涙をハンカチで拭く。
「…わかりました。お嬢様の言う通りにいたします」
メイアは立ち上がるとでは失礼しますと言って部屋を出ていった。わたくしはやっと立ち直ってくれたかと安堵した。
あれから早いもので半月が過ぎた。父からもうそろそろ学園に戻ってもよろしいと許可をもらえたので準備を始めた。そうして、五日が経ってわたくしは学園の女子寮に戻ってきた。
久しぶりだと隣の部屋の女子生徒が笑顔で言ってくれた。彼女はわたくしより一段身分は下になるがそれでも、国でも有数の財務大臣で侯爵の父君を持つスーザンという。
「…シェリア。あなたがエリック殿下との婚約を破棄されたと噂で聞いたわ。本当なの?」
わたくしはやはり耳に入っていたかと自身の予想が当たった事にうんざりする。
「…ええ。本当よ。殿下はね、わたくしの他に好きな女性ができたとおっしゃって。紹介もしてくださったわ」
「…まあ!そうだったの。殿下も酷な事をなさるわね」
スーザンは眉をしかめてわたくしを心配そうに見る。
「まったく殿下には呆れたものね。婚約者がありながら他の女子生徒と浮気するだなんて」
「…スーザン。怒ってくれるのは有難いけど。わたくし、いっそ、清々しいくらいなの。殿下への気持ちも吹っ切れたしね」
「…シェリア」
「ありがとう、スーザン」
お礼を言うとスーザンは毒気を抜かれたような顔になった。もう、あなたがそんなじゃ怒りようがないじゃないのと叱られたのは言うまでもない。わたくしは殿下の身分に憚らず、怒り心配してくれる友人に感謝をしたのだった。
そうして、時は流れてわたくしは無事に学園を卒業した。王立学園は幼等部から大学部までがあり入学は四歳からと決まっている。幼等部から始まり、高等部までだと十四年間を過ごす事になるが。わたくしも例にもれず、幼等部から入り今に至っていた。
そして季節は春先でわたくしは実家の公爵邸にいた。殿下と婚約破棄してから早くも一年が経とうとしている。今ではわたくしの代わりにアリシアーナ・フェンディ子爵令嬢が次期王妃と見なされて教育を受けているらしい。この情報はわたくしの兄のトーマスからもたらされたものだ。わたくしもそろそろ新しい相手を見つけなければならない。そう決心しながら邸の庭園の薔薇を眺めていた。
すると背の高い影がわたくしの辺りに落ちた。ゆっくり振り返るとエリック殿下とよく似た男性が佇んでいる。
なに事かと思っていると殿下とそっくりなだが、もっと淡い感じの水色の瞳をした男性は人好きのする笑顔を浮かべた。
「…やあ、シェリア殿。兄君のトーマス殿からは話を聞いたよ。そろそろ新しい縁談を探そうと思っているそうだね。ほとぼりが冷めるまで待っていたのかな?」
的確な事を尋ねられてわたくしは驚きを禁じえなかった。仕方なくそれには頷いた。
「…ええ。確かにその通りです。けど、わたくしに何の御用でしょうか。ラルフローレン公爵閣下」
わたくしが名を言うとラルフローレン公爵ことラウル王弟殿下はにっこりと笑った。
ラウル殿下はエリック王太子殿下の若い叔父君で現国王陛下の年が離れた弟君になる。今は陛下に頼まれて王子でありながらも公爵の位を賜っていた。
ラウル殿下は今年で確か二十二歳になられていてエリック殿下よりも四歳ほど上であられたはずだ。ということはわたくしとも四歳違いになる。だが、それよりもラウル殿下は何をしにこちらに来られたのだろう。
しばらく考えているとラウル殿下はわたくしに近づいてこられた。そして、驚いた事にわたくしの前に膝まずかれたのだ。これには絶句した。ラウル殿下はわたくしの左手をそっと取ると薬指に口付けた。
「…あ、あの。ラウル殿下?!」
すっとんきょうな声を出してしまった。それくらい殿下のなさった行為は信じられないものだった。
「…シェリア・フィーラ公爵令嬢。わたしはあなたを愛しております。結婚をわたしとしていただけますか?」
にっこりと笑顔を浮かべたラウル殿下は思いもよらぬ事を告げた。わたくしは体が固まってしまい、二の句が継げない。
ラウル殿下は根気強く待ち続けてくださった。この一年間、わたくしは何をしていたのだろう。そう思いながらも結局は頷いた。
「…わ、わかりました。お受けしますわ」
あなたであればと付け加えるとラウル殿下はやったと喜色満面の笑顔で立ち上がり抱きしめてきた。それにさらに身を固くしながらも抵抗はしないのだった。
そうしてわたくしはラルフローレン公爵夫人として生きる事になった。ラウル殿下はわたくしが幼い頃から何とはなしに気になっていたそうだ。けど、わたくしは既に三歳の時にはエリック殿下の婚約者に内定していた。ラウル殿下は泣く泣く諦めるしかなかったらしい。
けど、高等部の三年生になりエリック殿下に恋人ができたことが転機になった。ラウル殿下ことラウル様はこれ幸いとばかりに兄君の陛下にわたくしへの求婚をする許可を求めた。陛下は今すぐには無理だが時間を置いたのだったら良いと返事をくださったそうだ。ラウル様は辛抱強く待ち続けた。そうして一年が経ち、ラウル様は行動を起こす。まずはわたくしの父にも求婚の許可をもぎ取り、兄のトーマスにも知らせて協力を取り付けた。
わたくしは外堀を埋められて求婚をされた。逃げ場はなかった。
それでもわたくしは後悔しない。エリック殿下とはうまくいかなかったけどラウル様は大切にしてくださるし口うるさくはない。エリック殿下は見かけによらず割と神経の細かい方だった。それ故、わたくしは何かしらの注意を受ける事が日常茶飯事であった。
ラウル様はおおらかで心の広い方だからあまり注意をされる事はなかった。
ラルフローレン公爵邸にてわたくしはその後、三人の子供たちの母になる。息子が二人で娘が一人だった。ラウル様はわたくしと子供たちを大事にしてくれる。話によれば、エリック殿下は国王陛下となられていた。だが、彼の側にいるはずのアリシアーナ様の話はついぞ聞かなかった。わたくしは後で父に手紙を送った。それの返事によるとアリシアーナ様は正妃には身分が低くてなれなかったらしい。彼女は結局、エリック陛下の側妃になるしか道はなかった。陛下は後に他の高位の貴族令嬢を正妃に迎えたという。
「あなたを追い落としたあの女が悪い」とはラウル様が言っていた。わたくしは驚いたが。
今日も息子と娘は元気に遊んでいる。それを見ながら仕事から戻ってきた夫に振り返った。
「…ただいま、シェリア」
「お帰りなさいませ。ラウル様」
そう言葉を交わすとラウル様は嬉しそうに笑った。わたくしも微笑んでラウル様の方を見た。
日差しが穏やかな昼下がり、風にわたくしの髪がそよぎ、ラウル様はそれに目を細めたのだった。
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