ただ正しく眠るため

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「おはよう、ございます」  保健室のドアは、相変わらず開きにくい。半分くらい開いたところで急ブレーキがかかったように動かなくなり、あとは自動的にゆっくりと開き切る。閉めるときはスムーズなのに、変な仕様だ。 「おはよ、灰太くん」  真四角の冷蔵庫に氷嚢を詰めていた宮先生は、僕の姿を認めると、昨日と同じ柔らかい笑顔でそう言った。  僕はずっと喉の奥で詰まっていた二酸化炭素を静かに吐き切る。正しい酸素を取り込むためだ。  絶えず消毒液の匂いがするこの空間は、僕の唯一の安寧の場所だった。  宮先生は二十六歳、僕とは十二歳も離れている。彼女が僕の学校に赴任してきたのは去年の秋ごろのことで、その当時僕は学校に通えていなかった。  僕は学校が嫌いだ。もっと言えば、他人が嫌いだ。自分以外の脳が自分のことを勝手に考えている、そういうのが気持ち悪くてたまらない。中学にあがってから、周囲の視線や声が気になって仕方がなかった。  前髪が長いだけで根暗だと思われる。服に皴があるだけで、家族に愛されていないのだと知られる。それが憶測であれ何であれ、『そう思われている』ことが問題なのだ。確かに僕の家族は僕を愛していないけれど、別にそれはただそういう環境に置かれているというだけの話だ。それをネタにして僕の持ち物をゴミ箱に捨てるクラスのやつだって、ただそういう人間としてこの世に生を受けただけなのだからしょうがない。  ただ、同情はだめだ。それだけは、どうしても受け入れられない。  可哀想だね、と人は簡単に態度に出す。そんな顔をされるくらいなら、いっそ殴ってくれた方がよかった。  みんな勝手にわかったふりをして、他人を救った気になって、遠い所にある不幸を踏み台にして気持ちよくなっているだけだ。そんなの、気持ち悪すぎる。  ようするに僕が学校に行かなくなったのは、そういう他人の優しさぶった言葉に耐え切れなくなったからだ。 「ほら、こっちおいでよ。一緒にサボろうぜ」  でも、宮先生は違う。彼女は僕のことを可哀想だなんて言わない。同情もしないし、救いもしない。ただ一緒に、時間を無駄にしてくれる。  それが、僕にとって一番の救いだった。
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