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宮先生の顔は、こんなときでも綺麗だ。彼女はそのまま、まるで人でも殺してしまったみたいな表情をして固まっている。消毒液の匂いに、多分宮先生の香水の匂いが混ざっている。さっきまでは、なかった匂い。
「おお、島崎じゃないか。なんだかその、あれだな。久しぶりだな」
「こんにちは」
「どうしたの? さっき帰ったばかり……」
「ああ、小説、返しておこうと思って」
自分でも驚くほど冷静だった。それは今の出来事が、僕と宮先生の時間に支障をきたすようなことではないという証明のように思えた。傷ついてなどいないのだから、そこに傷などない。僕は決して、血を流していない。
「そう、なんだ。別に明日でもよかったのに」
宮先生はなんとか平静を装いながら、僕の拾った本をそのまま受け取った。一瞬触れた先生の手は、生温かった。それがすごくほっとして、泣きたくなった。
「僕、もう帰ります」
ここで泣いたって無駄だ。それは、それだけは許されない。僕の安寧が、無為な時間が、たった一度の過ちで崩れてしまう。
そんなこと、耐えられるわけがなかった。
「おうおう、じゃあな島崎。明日はクラスに顔出してくれてもいいんだぞ」
宮先生の顔は見れなかった。もしかすると、今先生は『あの顔』をしているかもしれない。怖い。逃げなければ、いけない。
僕は何も聞いていないのだから。
「……うん、さよなら。気を付けてね、灰太くん」
「はい」
振り返り、歩き出すとまたあの家への道が始まる。なんだか急に胸がざわざわとして、喉の少し下の辺りが締め付けられるような感覚になった。服の胸元を握り締め、一歩ずつゆっくりと進んでいく。まだ、宮先生はこちらを見ているだろうか。まだ、あの扉は開かれているだろうか。
渇いた口を開いて、上手く吸えない息を吸う。消毒液の匂いはもうしない。けれど明日は、また来るのだ。だから、
「おやすみなさい、宮先生」
僕は、今日も正しく眠りたい。
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