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1.残暑
既に九月だというのに夏は過ぎ去る気配もなく、日中はうだるような暑さが続いている。少し動いただけでじんわりと汗が滲んでくるこの時期に着るスーツは不快だ。まぁ近頃はクールビズとやらのおかげでネクタイを締めなくて済むだけずいぶん楽なのだが。
「行ってくるよ、母さん」
その日も私はいつものように母にそう声をかけ玄関へと向かった。
「はいはい、今日は晩御飯いらないんだったわよね」
キッチンから母が顔を覗かせる。今年で七十五歳になる母だがまだまだ元気一杯だ。
「うん、会社の連中と飲んでくる予定なんだ。先に寝てて」
母がエプロンで手を拭きながらパタパタとスリッパの音をさせ走り寄る。
「彰ちゃん、昨日の話ちゃんと考えといてよ」
睨み付けるようにして私を見上げる母に私は苦笑する。
「いやいや、もう今更見合いとかいいよ。俺もう五十三だぞ? こんな親父に興味持つ女の人なんていないって」
昨夜母は私に見合いの話を持ち込んだ。何でも知り合いの知り合いとやらに夫に先立たれ一人暮らしをしている女性がいるのだという。とてもいい女性なのだそうだ。だが知り合いの知り合い、というやつほどあてにならないものはない。第一私は妻を亡くして以来再婚どころか女性とお付き合いする気すらなくしていた。
「何言ってんのよ! 美夏ちゃんもお嫁に行っちゃったし、あたしが死んだら彰ちゃんひとりぼっちよ! 少しは真剣に考えなさいな」
ひとり娘の美夏は一昨年に結婚し家を出た。今は母と二人で暮らしている。父は私が成人してすぐに亡くなっていた。「はいはい」と生返事をし玄関を出る。見上げればあいにくの曇り空。私はふと振り返り我が家を見つめ独り言ちる。
「こいつもずいぶんくたびれちまったなぁ」
そろそろ築二十年になる我が家。若いうちにマイホームが欲しいと思っていた私はローンを組み三十代半ばにして念願の我が家を手に入れた。妻もよく協力してくれた。家事育児をこなしながらパートで家計を支える日々。どこかで無理していたのかもしれない。妻はこの家を建てた翌年、娘が六歳の時病に倒れあっけなく逝ってしまった。本当にあっけなく。途方に暮れた私は妻が小さなノートを遺してくれたことに気付く。自身の死を予見していた妻は家事のあれこれなどをそのノートに書き記していた。そして最後の頁には私宛のメッセージ。それを読んだ時、私は号泣した。人間というのは無尽蔵に涙が流れる生き物なのか、と驚くぐらいに。そしてその涙が枯れた時、私の心はすっかり乾いてしまった。もう誰かと深く関わり合うのは嫌だと思った。こんな思いをするぐらいなら一生他人と深く関わるまい、私はそう心に決めたのだ。
それからは娘を無事育て上げることだけが私の生きる目標となった。ひとり暮らしをしていた母を呼び寄せ家のことをしてもらいつつひたすら仕事に打ち込む日々。そうしてようやくローンも完済し娘も嫁いだ今、私に生きる目標はなくなった。そう、私の人生は終わったのだ。
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