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8.
「リコちゃん、僕はどうすれば」
「断るのよ、一旦」
「一旦?」
「そう、もう少し時間をくださいって」
「時間?」
「だから、民法改正を待つの! さっきから言ってるじゃんよ」
「民法?」
選択的夫婦別姓。
……その言葉に聞き覚えはある。
なにやら数組の夫婦が署名などを集めて国を訴えて、裁判沙汰になっていた案件だ。たしか最高裁から違憲ではないと棄却されたはず。自分には関わりがないニュースと思い、あまり興味は持っていなかった。
「選択的夫婦別姓なら、ママは緒方マリ。あたしの苗字も緒方のままよ」
「それまで待ってほしいと?」
「そういうこと!」
「うーむ」
僕はふと、壁掛け時計に視線をうつす。時刻は8時58分、いよいよ朝礼の時間だ。こんなところでこれ以上、リコちゃんと話し込んでいるわけにはいかない。
彼女の主張はだいたい分かった。苗字に関しては、今後も最大限の熟慮をしよう。ただ、そもそも今日これからはじまる朝礼のあと、いきなりプロポーズされるだなんて、やはりあまりに信じがたい。普通の人は、そんなタイミングで結婚の申し出なんてしてこない。
きっとなにかの間違いだろう。
でも、いつか来るであろう結婚というタイミングでは、リコちゃんの思いを叶えてあげたいと思った。
「考えておくよ」
「絶対によ!」
「ああ、熟慮する」
「頼んだわね」
そう言いながら、右腕につけたデジタルの腕時計に視線を向け、慌てた表情でひきだしに向かっていくリコちゃん。片足をひきだしの中にすっぽり入れたところで、もう一度こちらを振り返る。
「じゃあね、パパ。元気で」
「君も、元気でね」
「会えてよかった」
「ああ、僕も嬉しかったよ」
リコちゃんは両手をかるく左右に振り、さよならの合図を僕に送ると、そのまま勢いよくぴょーんとひきだしの中に飛び込んでいった。
彼女がいなくなった途端、ぴしゃりと威勢よくひきだしが閉まり、それからはいつもの静寂が部屋に戻ってきた。
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