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駅を降りると、佐紀さんが花壇の前でスマホを覗いていた。僕は駆け寄り、礼をする。
「お待たせしました」
「いえ、大丈夫。早速だけど行きましょうか」
僕は頷いた。
佐紀さんの背筋はいつも通り綺麗に伸びているが、その顔には覇気がない。兄を心配してのことだろう。
静かな朝の住宅街。
犬の散歩をする老人が僕らに会釈する。僕は小さく頭を下げ、佐紀さんは微笑んだが、彼が去ると、硬い表情に戻る。
「渉くんは、いつ智一くんと話をしたの?」
「一週間前ですね」
母の日のプレゼントは何にしようか。気の早い僕が兄に電話をかけたのだ。本当にいつも通りで、変わった点など一つもなかった。
そう伝えると、佐紀さんしばらくためらいを見せた後、口を開いた。
「今回のことはもしかしたら、私のせいかもしれない」
声が震えている。
「ヒヤシンスを倒してしまったの」
僕は目を見開いた。
その日、佐紀さんは仕事帰りに兄の家を訪れていた。二人で過ごす穏やかな時間にそれは起きた。
食事の片づけをしていた佐紀さんの手が、ラックの上のヒヤシンスの水槽に当たった。
「あ」
手を伸ばしたが、届かなかった。水槽は派手な音を立てて、砕け散った。
沈黙が訪れた。
我に返った佐紀さんは何度も何度も謝った。だが、兄は何も言わなかった。
やっと口を開くと、一言、帰ってくれ、と言った。
「智一くんがあのヒヤシンスをどれだけ大切にしていたか、知ってたのに」
涙をこぼす佐紀さんを見ながら、どこかほっとしている僕がいた。
過去のあの惨劇がフラッシュバックする。僕は何本も骨を折ったし、血まみれになった。佐紀さんが無事でいてくれて本当に良かったと思った。
兄の住むアパートに着く。塗装は剥がれ落ち、見るからに古い。結婚までにお金を貯めるという兄の決意の表れだ。ただ、壁が薄くて困ると笑っていた。
202号室の扉をノックする。返事はない。
名前を読んでみても、声はおろか、物音すら聞こえない。代わりに、階段を登る軋んだ音が響いた。
僕らはかすかな期待から、そちらを振り返った。過剰な動きに驚いたのだろう。青年がびくり、と肩を震わせた。兄ではなかった。
落胆している僕の前に出て、佐紀さんが青年に声をかける。
「すいません。この部屋の者の知合いなんですが、ここ数日変わったことはありませんでしたか?」
そのあまりに芯の通った声に、青年は少しひるみつつも答える。
「ありますよ。ちょっとうんざりしてたんです」
佐紀さんから目を逸らし、青年はため息をつく。
「女のね、金切り声がひどいんです。男のぼそぼそした声と、女の甲高い声。いつもは落ち着いた調子で話してるから、気にならないんですけど」
佐紀さんの身体に緊張が走ったのが見えた。きっとはたから見れば僕もそうだっただろう。
「三日くらい前かな。喧嘩したのか、女がすごい声で。本当にひどくて、眠れなかったくらい」
青年は佐紀さんをちらりと見ると、言った。
「知り合いなら何とか言ってください。もう、二度とあんなことないように」
「分かりました」
答えた佐紀さんの声は震えていた。青年が203号室に帰っていく。佐紀さんは動かない。
僕はなんと声をかけていいか分からない。
兄の部屋に女が出入りしていたようだ。僕の親類で兄と親しい女性などいない。では、誰だ。
だが、兄が浮気をするとは思えない。人ではない、ヒヤシンスにさえ、あれほど一途だったのだから。
万策尽きた僕らは、ついに管理会社に電話した。
電話越しの職員はけだるげに返事をし、三十分後アパートの前に現れた。もたもたとした動きに知らぬうちに貧乏ゆすりをしていた。
僕は深呼吸し、それを抑える。
がちゃり、といった鍵の音が妙に耳に入った。
薄暗い廊下を管理会社の男を前に歩く。
男が廊下の扉を開いた。
嗅いだことのある、かぐわしい香りがした。
それに気を取られていた僕は、目前で急停止した男にぶつかってしまった。謝ろうとしたが、男はそんな僕に目もくれず、回れ右をし、部屋から出て行ってしまった。
佐紀さんがそんな部屋の中に飛び込む。
彼女が立ち止まった。続けて立ち入った僕も足を止めた。
異様な光景に呼吸を忘れた。
兄は、一糸まとわぬ姿でベッドに横たわっていた。
胸に、紫の球根が植わっていた。
体中の皮膚下に、白い根が巡っていた。
それは太い茎をつけていた。
重い葉を持っていた。
左胸に、真っ赤な花を咲かせていた。
佐紀さんの悲鳴が耳をつんざく。
それを聞きながら、僕は兄の言葉を思い出す。
「赤いヒヤシンスの花言葉を知っているかい?」
「知らない」
幼い僕は答えた。その時、兄は答えたのだ。
「嫉妬、だよ」
佐紀さんより早く、兄と一つになったヒヤシンス。
兄との初夜を迎えたその花は、どこまでも美しく、その存在を見せつけるように、花弁を広げていた。
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