嫉妬の花

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 兄の友人は、それ、だけだった。水槽に乗った紫の球根、そこから伸びる白い根。咲かせる花は、赤い花。  それは、それこそは、ヒヤシンス。  兄と連絡が取れなくなった。  地元の両親から連絡があった。  僕からも連絡を入れたが、返事はなかった。残業続きで身動きが取れず、やっと時間に空きができたのが週末の今日。  いつもと同じ、朝七時に目を覚まし、支度を整え、狭いワンルームの家を出た。  がたんごとん、と規則的な音を聞きながら、僕は窓の外に目を移す。  雑多なビルの林が遠のいていく。都心から二十分の郊外の街に兄の住む家がある。  職場から離れてでも落ち着いた場所を選んだようだ。兄らしい。  兄は物静かな人だった。  成績もよく、問題なんて起こすはずがない。僕とは逆のとてもできた子どもだった。だが、両親はいつも問題児な僕より、兄を心配していた。  兄の友人が人ならざる、それ、だけだったからだ。  春になると可憐に開くかぐわしい花、ヒヤシンス。  兄はそれの前だけで笑顔を見せ、それの前だけで饒舌になった。  幼いころの僕は常に無表情な兄が怖かった。だが、兄はヒヤシンスの前だけでは朗らかだった。だから、兄がヒヤシンスと話をしている時だけ、僕は兄に甘えに行った。 「大切にしていたら、ヒヤシンスは何年も何年も咲いてくれるんだよ」  兄が教えてくれた。話すのはヒヤシンスのことだけだった。育成方法、花言葉、そして、その美しさ。 「見てごらん。とても官能的だ」  小さな僕には言葉の意味が分からなかったが、兄の潤んだ目をよく覚えている。  中学に入るころには、兄の存在が鬱陶しくてたまらくなった。  兄は、ヒヤシンスに話しかける奇妙な存在として、近所で噂になっていた。  ある春のことだ。  庭先に置いてあったヒヤシンスの水槽を倒した。丸いガラスが割れ、白い根が無残にはみ出る。つぼみと葉をつけた重量のある茎が横たわった。  故意ではなかったが、あまりに無残な姿にひやり、とした。だが、その一方で僕は爽快な気分だった。ヒヤシンスを友とする気持ちの悪い兄を懲らしめた気になったのだ。  ガラスの音が聞こえたのだろう。後ろから足音が聞こえた。  振り返ると同時に殴られた。あまりの衝撃に、体勢を崩す。見上げると、見たこともない表情の兄が立っていた。  兄は倒れた僕に馬乗りになると、何度も何度も殴った。駆け付けた両親が止めても殴り続けた。  僕が血を吐いた。そこで、兄はやっと手を止めた。  僕は救急車で運ばれた。あれほどの恐ろしい体験をすることは、もう、一生ないだろう。  退院しても、兄と会話をすることはできなかった。恐ろしくて、目も合わすことができなかった。もう怒っているようには見えなかったが、庭先の水槽はなくなっていた。兄が自室に持って行ったようだった。  兄と再び言葉を交わしたのはここ数年のことだ。  父の還暦祝いをどうするか。そうメッセージが来たのを今でも覚えている。  あれほど人に興味のなかった兄の言葉とは思えなかった。  待ち合わせをすることになったが、当日まで僕はひどく怯えていた。だが、逃げることもできずに、行ってみると、兄は昔とは違う柔らかな笑顔を浮かべていた。  大切な人ができた。  父への贈り物を選びながら、兄は言った。僕はひどくいぶかしげな顔をしたのだろう。兄は苦笑しながら、花じゃなくて人間だよ、と言った。  その人は佐紀さんというらしかった。職場で出会った年上の女性らしい。  そして、兄はあの日のことを僕に謝った。深々と頭を下げるものだから、僕の方が戸惑ってしまい、僕も頭を下げた。昼食時のファミレスだった。はたから見たら奇妙だっただろう。  それから、僕と兄との交友は復活した。いや、始まってといった方がいいか。  たまに酒を酌み交わしたり、佐紀さんへのプレゼントの相談に乗ったりした。  随分と人間らしくなった兄にほっとした。おそらく佐紀さんのおかげだろう。  僕は佐紀さんに感謝した。両親もまたそうだった。  兄が彼女を連れて実家に帰ると、母が話もできないくらい泣いてしまったと聞いた。申し訳なかった、と兄は肩を落とした。  兄と佐紀さんの交際は順調に進み、婚約し、両家の顔合わせも終わり、結婚式の日取りも決まっていた。  兄が自ら連絡を絶つとは思えなかった。だとすれば、何があったのだろう。
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