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「はいはい。せいぜい気をつけますよ」
呆れながら玄関に向かう私の後を妻が追ってくる。
「あのね、今日のラッキーフードは天丼だから、絶対にお昼に食べてよね」
「わかったわかった」
天丼を食べろって言っても、昨日食っちゃったしな。と思ったが口には出さず、
「行ってきます」
それだけ言って玄関を出た。
そろそろ夫が帰ってくる頃だ。夕飯の支度をしながら待っていると携帯電話が鳴った。知らない番号だ。出ると警察からだった。夫が交通事故にあったらしい。命に別状はないということなので胸を撫で下ろすものの、私は急ぎ教えられた病院へ向かった。
病室に駆け込むと、夫はベッドの端に座り窓の外を眺めていた。私の気配を察して振り返る。その姿を見て拍子抜けした。命に別状はないと聞いていたが、そもそもかすり傷一つ負っていないようなのだ。暢気そうにとぼけた表情でこちらを見つめている。
「なによあなた。心配したんだから」
歩み寄ろうとすると、背後から声をかけられた。
「失礼ですが、奥様ですか?」
振り向くと戸口に白衣を着た男性が立っていた。担当医師だろう。
「はい、そうです」
「すみませんが、ちょっとこちらに」
いざなわれるまま廊下に出た。医師はちらりと病室内を見てから、
「ご主人のことなのですが」
「ありがとうございました。たいしたことないみたいでホッとしました」
「まあ、奇跡的に外傷はまったくなかったんですが、残念なことに、ご主人は記憶障害を起こされているようで」
「それってつまり……」
「簡単に言えば、記憶喪失です」
当たった。記憶だって重要なデータだ。それを失くしてしまったのだ。
きっと夫は天丼を食べなかったに違いない。
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