闇の剣士 剣弥兵衛 悪霊の兆し(四) 

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 夜になり灯明に火を点け、石不動に向かった。年の瀬のあわただしさも、そろそろ通りから気配の消え去る頃、冷気が迫るが智里に渡された丹前で温かさを保っている。こんな時に、やっと不動が現れた。 「弥兵衛、此度はご苦労であった」 「あの大麻が何であったのか。何か私を引きこむためにあったように思いました」 「そうじゃのう。やはり、あの悪霊にとって、そちが一番の邪魔者かも知れん」 「そうですか。ならば次には、相当な覚悟が要りますか」 「その通りだ。現世は煩悩の渦の中に巻き込まれておる。常なる人が何時、深い煩悩に陥るか知れたものではない」 「それは悪霊にとっても、取り込みやすい人かも知れませんね」  不動が、暫し黙念している。 「悪霊と言うのは、人のさもしい心の中に入り込んで来る。それを人が気付くことも出来ないうちに入ってしまうようじゃ。それが一人、二人なら、まだ仕置きも容易いが、千人、二千人となると、難しいことになる」 「それほどの人を動かしますか」 「いや、人だけではない。風雨に雷、更には病や虫などでも災いをもたらそうとするであろう」 「そうなると、私一人では、立ち向かうことも叶いません」 「此度は、老人と話して源四郎を向かわせたが、更に一人を考えておる」 「そうでした。まさか源四郎さんが、闇の剣士とは思いもしませんでした」 「老人の顔は広くて上雑色の四家とは繋がっておる。源四郎は現世の数年前に伊賀で某が育てた者じゃ」 「それで、もう一人とは」 「そちが京に来た時に、恩義を掛けた者じゃ」 「壺振りの清太郎ですか。あの者なら確か、三年の修行をしてから京に戻ればと申しました」 「そちの修行は、何年であった。それで現世では」 「あっ、そうでした。五年の修行が、現世では五日が過ぎたばかりでした」 「かの者には鍼灸の技に加え、己の体質を磨いた技を会得しており、必ずやそちの力になろう」  灯明の火が、僅かばかり揺らいだ。 「もう一つ、判りかねることがございます」 「それは早良親王のことか」 「その通りで、何故にあの者達が早良親王を奉じているのかが判りません」  不動が、親王の事件について語った。  桓武天皇が平城京より遷都を考えられ、長岡京造営の時、造宮使長官であった藤原種継が暗殺された。この事件に連座される形で、実の弟であり皇太子であった早良親王が廃太子となった。親王は捕らえられたが無実を訴え、断食されて亡くなったと言う。その後、桓武天皇の周りでは次々と不穏な事態が起こり、長岡京は中止されて平安京に移ることになる。これは親王の怨念が祟りになっていると卜定され、鎮魂のため祟道天皇と追尊された。 「親王は無実の罪を被せられたが、それが悪霊に変わったとは考えられない。ただ、幾ばくかの怨念を持たれたであろうことから、後に作られた話として考えるのが妥当じゃ。あ奴らは、そんな作り話の悪霊を早良親王に求めておるのだ」 「良く判りました」 「それに、あの女のことについて言っておく。正に絶世とも言える美人であり、妖艶さを併せ持つ女である。古来、美人が持つ色香で城を傾けることもあり、傾城(けいせい)とも言われておる。この女が巷を動けばたちまちに、人の心を誘うことになる。某は、煩悩とは迷いの心である妄念にあり、これの多くは怨念より生じるものと考えておる。この女も自ずから悪霊として生きて行こうとしておるので無く、何らかの大きな怨念が己の生き方に影響を与えているに違いないと思っておる」  灯明の火が大きく揺らぎ、石不動の後背に座っていた不動の姿が消え去った。深更の京の通りには、夜廻りの拍子木の音だけが響き渡っていた。
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