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第6話 修行
薬所には色々な治療道具が置かれている。魔力が乏しくて精霊の姿が見えない薬師のために、どこの薬所でも精霊を映し出す大きな鏡が診察台の三方向に設置されている。
いつもは布がかけられているそれの前に立ち、シオンはきちんと使えるかどうかの状態を確認していた。
巡回薬師が来たということで、珍しいシオンの姿を一目見ようと朝から薬所は色々な人が押しかけてきていた。大人たちまでわんさか押し寄せてくるので、押さないでと列を整えるのに、ニケは必死だった。
その間にも、ロンやビビ、他の年長者に近い子どもたちがシオンの手ほどきを受けている。
師匠なき今も薬所は優秀な年長者と子どもたちを中心に動いていて、それはこの町にとってとても大事なことだったので、彼らが真剣にシオンの話を聞いていた。ニケはそれを目の端に見ながら、薬所にやってくる多くの見物人に並んでもらったり、具合が悪い人がいないかを確認する雑用を任されていた。
ニケが、薬師としてまともに仕事をもらったことなどない。みんな、落ちこぼれの嘘つきニケの治療を望んでいなかったので、こうやっていつも雑用を任されていた。
ユタ師匠がいた時にもほどほどに邪険にされていたが、今ほどではなかった。大人の抑止力とはすごかったのだと今さらながらニケは思う。
「これは木葉露草の種で、これは水に浸した脱脂綿の上に二日置いておけば発芽する。その発芽した芽は――」
シオンの透き通った声はよく響くので、ニケは必死に耳の端で聞いていた。
*
そんな忙しすぎる日が五日ほど続いた。
相変わらずへとへとになりながら、いうことを聞かない子どもたちを寝かしつけると、疲れたニケはふらふらと厨房へ行って甕に溜めておいた水を柄杓で飲んだ。シオンが来てからここ数日は、忙しすぎて、チイとビイにも会いに行けていなかった。
「なんだか毎日騒がしいな」
「――ニケ、まだ寝てなかったの?」
現れたのは、年長者のロンだった。あまりにも静かに来たので、ニケは驚いて柄杓を落としかけた。
「ごめんごめん。驚かすつもりじゃなかったんだ」
眉毛を八の字にして笑う十九歳のロンは、ユタ師匠の最年長の弟子だった。ロンは魔力はそれほどではないものの、精霊を写す鏡や魔法石で彼らを映し出して治療することができた。
しっかり者でとても細かいところに気がつくロンが、亡くなった師匠の代わりに今は薬所を仕切っていた。
「もう寝るよ、疲れちゃったし」
「悪いね。毎日、大変な仕事ばかりで」
いいよ、とニケは少し笑った。
「ビビにまた今日もこっぴどく言われていたね。僕もビビには注意をしているんだけど、全然聞かないや。思春期ってやつかな」
ロンは困ったように髪の毛をぼりぼりと掻いた。ロンがビビの言動に手を焼いているのは、他の年長者のダンとラダも分かっていた。
その時、ロンの次に出てきた言葉に、ニケは思わずもう一度柄杓を落としそうになった。
「ビビにはちょうどいい機会だし、シオン様に頼んで修行に連れて行ってもらおうと思ってて」
「え……?」
修行に行くのは薬師としては必要なことだった。亡くなったユタ師匠も、世界中を修行する旅をし、後にこの町に薬所を構えた。
多くの薬師は誰かの元で修行をする。特に町の薬所で優秀な者は、巡回薬師に引き抜いてもらって、しばらく共に旅をして修行をする習慣がある。
巡回薬師も、単独行動をする者もいるが、その多くが弟子や見習いと共に旅をしている。その方がもちろん治療もしやすく、旅も安全になる。
弟子や見習いを育てなくてはこの職業は成り立っていかないのだ。
故に、巡回薬師は、立ち寄った町の薬所から頼まれれば、弟子をとることを拒むものはほとんどいない。
「でも、急だよ。ビビだって、行きたいって言うかどうか」
ビビはこの町育ちでここから出たことがない。おまけに頑固なところがあるので、修行に行くのを承諾するとは、ニケには到底思えなかった。
それに、本当は、ニケが行きたかった。どうにか自分が町から出られないかとニケは思う。
「旅は危険だし、慣れてないのに急すぎじゃないかな?」
「うーん。だけど、彼女なら魔力もあるから精霊の姿が見えているし、シオン様の足手まといにもならないだろ。それに、ビビには、もう少し成長してもらわないとだよ。いつまでもニケをいじめていちゃ、ニケだって困るでしょ」
それはそうだけど、とニケは空になった柄杓の底を見つめた。
「ビビには話したの?」
「うん。僕も意外だったけど、本人も乗り気だった。数年修行してから戻ってきてくれたら、この薬所も助かるし、ビビも成長できると思う」
(――シオンと一緒に行くんだ。ビビが)
ニケは「そう」とつぶやいて下を向いた。
正直に、ビビが羨ましいと思った。この環境から出たいと思う気持ちは、ニケの方が強かった。
しかし、いつも自分は選ばれない。こんな時でさえそうなのだ。ニケは絶望してはいけないと自分自身に言い聞かせた。
それと同時に、自分が行けたのなら、どんなにいいだろうとニケは思った。この町を離れて、誰もニケのことを知らない土地へ行けば、こんな惨めな思いをしなくて済むだろうか、と。
チイやビイと離れ離れになるのは辛いが、疎まれている環境から逃げ出したい気持ちは強かった。
「ビビがいなくなったら、ニケ、君がいてくれないと困るからね」
「え、私?」
「ニケだって年長者組でしょ? そろそろ一人前にならなくちゃね」
ロンはそう言って笑ったのだが、ちょっと困ったような顔をしたのは、ニケが頼りないからだった。
おやすみと言ってニケと別れてから、ロンはそう言えばと思ってユタ師匠の手記を倉庫から探した。
巡回薬師が来た時に聞くことや、その作法などが書かれたもので、ロンは突然来たシオンと薬所の対応に追われて、それがすっかり読めていなかった。
この辺鄙な町に、巡回薬師が来ること自体が珍しい。
この町では精霊との問題が起こることもほとんど無く、そして、病人も決して多い方ではないので、巡回薬師たちも迂回してしまうのだった。
「えっと、確かこの辺に……あったあった。わあ、師匠の字懐かしいな」
ロンはそんなことを呟きながら、その手記をぺらぺらとめくる。すると、一通の手街がはらり、と地面に音もなく落ちた。
「ん? なんだろう、これ……え?」
その手紙を開いて、ロンは眉をしかめた。ロンはそれを読み終わると手が震える。
そして、その手紙を持つと、慌ててシオンの部屋へと向かった。
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