六月九日の花嫁

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「病める日も健やかなる日もあなたは──」 スタンドグラスから澄んだ青色の光が和らげに射し込み、今日の新郎新婦を祝っているようだった。 「誓います」 華子(はなこ)の清らかで透き通りそうなほど美しい声がチャペル内に響く。彼女らの背では友人たちが歯型をつけたハンカチで目元を拭い、父兄の席では代々受け継がれる着物に袖を通した母親の目元が真っ赤に腫れている。 鼻の啜る音を耳で感じ取りながら、華子は新郎と向き合った。 白い小さな花を縫い付けられたベールがふわりと取られ、顔が露になる。ソフトクリームのように巻かれた髪を色付かせる花々はさらに新婦の美しさを際立せる。新郎は瞬きに花火を咲かせ続け、暫しベールを掴んだままだった。 新郎は七三で髪を整え、一八〇と高身長だ。鼻梁もスラリとし、猫みたいにつり上がった目にも水の膜が張っていて、優しい人なんだと映る。 華子はくすりと笑い、ゆっくり目を閉じる。赤い薔薇を奪ってくれるのを信じて。 感覚でわかる。新郎の顔が徐々に、でも確実に近付いてくるのが。肌の温度でもあり、彼の匂いでもあった。細胞一つ一つが待っているのだ。 純白のウエディングドレスを身に纏うよりも、両親や友人の涙よりも、長い誓いの言葉よりも。何より華子は自分のパートナーとのキスを待ち侘びていた。 鼻や唇に当たる息がだんだんと熱くなり、呼応して胸の奥が沸騰してくる。誓いのキスで結ばれ、溶け合ったらどんなに心地良いことだろうか。 しかし、華子にその瞬間は訪れない。 華子が重い瞼を上げると、見知った青みがかった天井が広がる。子供の頃にふざけて貼ったシールは時間の経過によってしわくちゃになっていて、電球から伸びた紐がゆらゆらと鼻先で揺れる。 枕元に置いてあったスマホの電源をつけ、眩しさに目が細まった。祈る気持ち半分、諦め半分の気持ちで表示された日付を覗き込む。 「また、六月九日……か……」 六月九日午前五時。いつも通りの日。 手の中のスマホが幾度も震えるが、友人たちの祝福のメッセージも読む気にはなれなかった。小豆の枕に乗せた頭は底へ沈む。 (もう、何回繰り返しているんだろう) 六月九日は華子にとって人生で重要な日だった。二十歳の誕生日前に迎えるその日は愛おしく、大事な人と結ばれる日でもあったからだ。一日早い誕生日プレゼントに「もうちょっと後にしない?」と言ったのか、「やったあ!」と喜んだのかすら、もうとっくに忘れてしまった。 空色は薄青から紫へと変わっていき、もうすぐ陽が世を照らすだろう。人々は活動し始め、植物も目を覚ます。 無論、花嫁の朝は早い。八時には会場に着き、十時には挙式が執り行われる。 (動きたく……ないな) 睡魔とは違う、辛さが体全身にのしかかった。これが華子にとってのマリッジブルーかもしれない。 この繰り返しで一番おかしな点はパートナーは毎回変わることだ。一つ前は某お菓子メーカーのエリート社員で、三つくらい前には笑顔が似合うぽっちゃりで低身長の新郎。時には女性ということもあり、自分なんかよりも何倍も美人で泣き虫さんの姿に心を奪われた経験がある。 一度だけ結婚式逃亡を試み、始発で旅行しに行ったものの、挙式が始まって二十五分ほどで今朝に戻されてしまった。何にせよ華子はこの六月九日の結婚式当日から抜け出すことが出来なかった。 「写真アプリの読み込みが悪いのも変わらず……か」 ごろりと仰向けになってスマホを弄っていれば新メッセージが数件。『寝坊するなよ』『遅刻厳禁!』『大丈夫?』……など。友人からのメッセージも優しさが溢れているが、運命の神様は華子に優しくない。 エンジンをふかした車の音で窓を覗き込む。運転席から出て、手を振るのは孫のイベント事に命をかける祖父だ。今年で九十になる。声は聞こえないけど、目が合って「おめでとう」と皺をいっぱいさせた笑顔で祝ってくれる。 祖父の顔をみたら、萎んだ花もちょっとは生き返り、上を向こうとする。 (…………今日こそは運命の相手でありますように)
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