六月九日の花嫁

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連れてこられたのはチャペル――の隣にある小屋だった。小屋の前には牧場があり、牛や羊、馬が草をもしゃもしゃ食べている。牧師によれば彼らの家とはまた別であることを教えてくれた。 洗濯干しにかけられたシーツは靡かぬまま、緑の芝にドット柄をつくっている。良い絵だと思えず、カーテンを閉めた。 「はっきりしない天気ですね」 (今までの天気と違うのはなんでなのかな? 天気予報が外れるようなもの?) 出されたホットチョコレートを一口飲むと蕩けて甘い気分に包まれる。チョコ本来の苦さがミルクや砂糖で隠され、かなり好みの味に仕上がっている。 「お口に合いましたか?」 「はい。体の内側からポカポカします」 小雨程度でも体は冷たくなっていた。 (怖い話でさらに拍車がかかったに違いない。うん、絶対にそうだ) 頷きながらホットチョコレートをいただき、イレブンジズに加わったクッキーに手をつける。中央のくぼみにイチゴジャムとブルーベリージャムが流し込まれていて、小腹を満たしてくれた。 「よくお食べになりますね」 「……女性の地雷を踏みましたよ?」 女性に対して失礼なワードランキング入賞。恐らく「太った?」と並ぶトップスリー入りだ。 「これは失敬。心身共によろしくないという懸念が晴れ、喜ばしいですよ」 牧師は笑うとクッキーを取る。突進した時に気付いたことだが、大きな手や足に反して体は細身だった。小さな丸型クッキーを三本指で掴む様子は雄々しくなく、綺麗に揃えられた指でゆったりと上品に口へ運ぶ。所作に美しさと華やかさがあった。 姿勢も真っ直ぐに伸びている。前髪は短めに遊ばせてあり、ゆでたての玉子みたいなおでこを確認できた。太い眉は整える程度にされ、目は垂れがちで右目には泣きホクロがある。鼻も唇も控えめ。 サクッ。クッキーの割った音すら心地良い。 ただでさえ端正であるのに赤の瞳は吸い込まれそうな宝石みたいで、咀嚼音すら華子の耳に届いていなかった。 (特に意識していなかったけど、牧師さん綺麗だ。どの結婚相手もそれぞれの良さがあったよ。でも、この人は根本的に何かが違う……) 「奥山さん?」 その時、小屋の扉が激しく叩かれる。 「宮村くん! 奥山さん、いらっしゃいませんか? もしくは見かけた?」 木製の小屋は年季が入っており、光も多数の人影も隙間を通ってくる。 (どうしよう! 見つかっちゃった……!) ここはチャペルの近隣に建っている。かつ、牧師がそっちにいないとなれば目星につけられるのは当然のことだ。 (でも、まだ……まだ……) 勇気? 覚悟? それともなんだ。 とにかく時間が欲しい。まだ時間が足りない。だからといって逃げ道はない。 (私だけ閉じ込められたみたいだ……) 涙腺が緩み、目頭が熱くなる。 このまま小屋に居続ければ牧師に多大な迷惑がかかる。連帯責任としてウエディングサービス業から外されるかもしれない。そうなった場合、一般人がどう責任を取ればいいのだろうか。 (最悪の結末は絶対に避けなきゃいけない。茂みの中に隠れていたことに目をつぶってくれた恩もある。お菓子もいただいたし!) 理性と本能がせめぎ合った結果、深呼吸をすることが先決となった。すると頭が冴えてきて、目元も乾いていくのを実感した。 「奥山様ですか。ここへは来ていませんよ」 華子が唇で「う」の形を作った途端、先に声を上げたのは牧師だった。 (なんで…………) 不思議がる華子に牧師はテーブル下へ隠れるよう指示した。先ほど外にあったのとは違う清潔なシーツが畳まれてあり、バレないように華子はそれを被った。 「僕は子羊が汚してしまったシーツの洗濯で忙しかったのでそちらへはまだ伺っていません。ですので奥山様はまだ見掛けていませんよ。何かありましたか?」 牧師はまるで何事もなかった風にスタッフと扉越しにやり取りをするので、華子は気が気でなかった。 薄く白い世界は天日干しのおかげか全身温かい。ただ、体勢を整えるために体を動かすとシーツのあまりの大きさに膝小僧を擦りむいた。 (あっ、やばいっ) 「そこに誰か……」 「だから言いましたよね。ちょっとやんちゃで可愛げがある子羊がいると」 温厚で柔らかい声がチクチクした棘に変化する。時間を長く共有したわけではないのに、華子はすぐに察した。若干キレている、と。 シーツを挟んだ頭上に大きな手が置かれ、布が擦れる。唐突な行動にわけも分からずにいたが、一定のテンポで撫でられて気持ちが良い。 (大きくて温かい手だ。お日様みたいにポカポカして、胸の奥が締め付けられて……) どこか懐かしさを覚える心地良さにうつらうつらしていると、騒がしい音が遠くなっていった。ふわりとシーツが宙を舞い、急に変化した景色に目を丸くさせた。 「面白い顔をしていますね」 顔を覗き込むなり、牧師は笑う。ぼんやりした視界が徐々に弧を作り、表情がはっきりと見えた。 (あれ……この顔、どこかで見覚えのあるような……) 「おやおや。眠くなってしまいましたか?」 「違いますよ。……本当に良かったんですか?」 「何をです?」 疑問に疑問で返されるのは消化不良になる。こほんと咳払いを一つし、正座して華子は牧師を見た。牧師もまた、中腰で華子を見ているからだ。 「逃亡者を匿って。しかも仕事のパートナーに嘘まで吐いて……。神様怒りません?」 華子は割と真面目に心配していた。牧師の身や仕事の関係云々。チャペルで結婚式を挙げるからといっても宗派は別だ。でも、細かいルールや掟に反したら罰を受けるのではないのかと本当に心配を――、 「あっははは。そうでしたか、話していませんでしたね」 返されたのは大笑い。心配の問いと回答が全く違うことに腹立たしいを通り越して華子は首を捻るばかりだ。 「僕はあそこで牧師を勤めていますけど、あくまでアルバイトの身です」 「アル……バイト……」 「今は牧場経営の傍ら、勉強の一環としてお世話になっています。僕以外にも何名か登録してあって……あっ、職場が近いのが決定打というのは内緒にしてくださいね。もちろん、新婚さんがご希望であれば本当の牧師さんをお呼びするプランもありますよ」 すらすら語られる内容に情報が詰まり過ぎていて、頭は既にパンク状態。心配損したと遅れて後悔がやってきた。話を聞く限り、厳格で深い事情も無さそうにも思える。 (あ、また何か言われるかも) バイト牧師が意地悪な一言を掛けてくると予想できた。「バイトに誓いを問われるんですね」といった辺りだろう。 「心配してくれてありがとう」 口から出てきたのは建前で隠した嫌味ではなく、本音に近い感謝の言葉。華子はたじろいた。敬語が取れ、よそよそしかったものが急接近したからだ。そう、今の顔の近さみたいに。 「奥山さんの不安が当たっても大丈夫さ。だって、僕は僕自身の力で運命を変えていく人間だからね。なんとかしてみせるさ」 男の言葉は純粋で真っ直ぐで、華子の胸にストンと落ちてきた。そうして胸の中で弾けてじわじわ広がっていく。 (この感じ、知っている。ずっと昔、あの人が……誰かが誓ってくれた言葉に似ている) 『――っても、――よ。――でも――』 声はノイズで耳に届かず、姿形も霧が邪魔をして思い出させてくれない。 (なんで苦しいんだろう……。私……) 真っ白なシーツに灰色の水玉が浮かび上がる。一つ、また一つ。梅雨の空模様は気分屋で、はっきりしてくれない。予想通りにならない。 「奥山さん……なんで泣いて……」 「分からない……分からない、分からない」 干したてのシーツはもう汚れてダメになった。次回は綺麗になっているのだろうか? 二度の洗濯に汗を拭う男が目に浮かぶ。 (あと、何分何秒で今回は終わっちゃうのかな。まだまだいっぱい喋りたかったな) 華子の泣く姿に困惑の色を隠せない男は、はくはくさせた口を閉じ、意を決した瞳を華子へ送る。唇は柔らかく弧を描き、汗ばんだ大きな手が雫を拭き取る。 ――僕は待っている。 どこかでそんな声が心の奥へ届いた。
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