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正樹さん
晴れた、月のない夜だった。
点々と輝く空の星と、川沿いを舞う蛍が私達を照らしていた。正樹さんは口下手で、私はあの人の前では顔を真っ赤にするばかりで何も言えず、ただ手をつないで、光の軌跡を眺めていた。川のせせらぎと虫の声が良く聞こえた。
何かいわなくては、という焦りがあって「あの」と口を開くと、正樹さんも何かをしゃべろうとしていた。そして私の言葉に気が付くと、慌てて言葉を飲み込んでしまう。
一匹の蛍が、私たちのすぐ目の前を横切り、消えた。
ふふっと笑う気配がした。顔は見えないけれど、正樹さんが私を見ている。
「夏美さん」彼が私の名前を呼ぶ。「僕は今晩、あなたにプロポーズするつもりでした。月が出ていたら『月が綺麗ですね』とでもいって、会話を始めたかったんですけど、あいにく、今日は新月でした。うっかりしてました」
面白そうに正樹さんが笑う。私も釣られて笑ってしまう。
「でも、月なんかなくても、夏のこの川にはいくらでも綺麗なものがあります。僕はこの場所が大好きで、ここをあなたといっしょに、ずっと歩いて行きたいんです。いつか、あなたに子供が出来たら、その子供と一緒に、ここを歩きたい。約束していただけますか? 僕と一緒に、いつまでも、ここを歩いてくれると」
月の出ていない夜で良かった。私はそう思った。彼の言葉を聞いたとたんに、喜びで私は顔をくしゃくしゃにしてしまったから。
泣きながら、ただ首を縦に振った。何か気の利いた返事でもできればよかったけれど、私は学が無くて、それしかできなかった。
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