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今はおやすみ
母を寝かしつけ、職員さんたちに頭を下げて、私は一息ついた。
母はここを病院だと思っているけど、そうじゃない。
ここは特別養護老人ホームだ。母はもう何年もここで過ごしている。
私の父は、私が生まれて数年後に病気にかかって死んだ。それから母は、女手一つで私を育ててくれた。
私がまだ幼いころ、母は何度も、あの河川敷に私を連れ出して、父との思い出話をしてくれた。父の夢は、母と子供を連れて、蛍が舞う美しい夜を散歩することだったという。
私の名前も、その夢を込めたものだった。叶う前に、彼は死んでしまったのだけれど。
その蛍も、今はない。私が高校生のころ、この田舎街にも開発の手が入って、河川敷は埋め立てられてしまったから。
「しょうがないよ。蛍より、洪水を防ぐ方が大事だものね」
母は寂しそうにそう言っていた。
でも、心の中では納得していなかったんだろう。
若い日の夢が、否応なく消え去っていくことに、心の中で反乱を起こしたのだ。
だから、ときどきあんな風に、結婚する前の母に戻ってしまう。
きっと、母は今も父のことを愛しているんだろう。記憶の中で、若い日の父と会い、河川敷を歩いているのだろう。
失われた幸福が、仮初の夜の下で母の心を慰めてくれていることを、せめて、娘の私だけでも喜んであげるべきなのかもしれない。
ベッドで静かに寝息を立てる母に、私は「おやすみなさい」と小さく告げて、家路についた。
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