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「久し振り。上がって上がって」
玄関ドアを笑顔で開けた旧友の宇佐美眞吾(うさみしんご)は最後に会った時より、いくらか太ったように見えた。その彼よりも、その奥にいる彼の妻に向かって茂木竜己(もてぎたつき)は会釈した。
「お邪魔します」
「どうぞ。お待ちしていました」
一歳年下の夫より頭半個分背の高い長身美女は、かすれた低い声の持ち主だった。
来客用のスリッパを借りた足で竜己が踏み入った新婚の部屋は、玄関の匂いからして独身男の住まいとはまるで違った。竜己にはどう表現すればいいかすらわからない、アロマ的ななにかのやつだ。家庭的と言うよりは、女性が住んでいる空気で満ちあふれた空間。案内され通されたリビングではそれが尚更感じられた。
「なんか、凄いな。映えそうっつーか…」
淡いグレートーンで統一された家具の中、くすんだパステル系の小物が控えめに配置された室内はインテリアショップの宣伝写真のようだった。
「菜々花(ななか)さん、インテリアに凝ってるから」
「もう、そんなでもないっていつも言ってるじゃん。これくらいはみんなしてるってば。茂木さん、お飲み物は?紅茶とコーヒー、どちらがお好きですか?」
「えっと、どっちも好きなんでどちらでも。これ、たいしたものじゃないですけど」
竜己は赴任地の銘菓が入った紙袋を菜々花に渡した。
「ありがとうございます。バターサンドだったらコーヒーの方が合うかな」
「コーヒーだったら、俺が淹れるよ」
「いいよ。久し振りに茂木さんと再会できたんだから、話したいことたくさんあるんでしょ」
新妻にキッチンから追い出された男二人は、ライトグレーで揃えられた一人掛けと二人掛けのソファにそれぞれ座った。
「……太ったな」
座面にあって腰の位置が決まったところで竜己は、再会直後に受けた見た目の第一印象を友にぶつけた。
「まあな。菜々花さんの料理美味いから、つい食べ過ぎちゃうの。いよいよヤバイなと思って最近はちょっと気を付けてるけど、ついちゃったもんはなかなか落ちないから」
「あー…、俺も二十後半になったあたりから代謝悪くなった気ぃするわ」
「そうなんだ?そっちはそんな変わった風には見えないけど?」
「見えないところには結構ついてちゃってんだよ。今からでも高校の時みたいなしごき受ければ痩せるんだろうけど」
「やめろよ、思い出したくもない」
冗談めかして笑顔で言った眞吾だったが、その言葉の裏に本気を感じた取った竜己はすぐに話題を変えた。
「奥さん、本当に美人だったんだな。結婚式の写真かなり加工してるのかと思ってたら、実物がそのままで玄関でびっくりした」
「あ、そうだ。結婚式のアルバム見る?」
「俺行けなくて悪かったな」
「そんな……でも、来てくれてたらきっと楽しかったよ。ほら、出席した高校ん時の友達の写真」
「みんな、立派にオッサンになってんな」
「はは。ひとのこと言えんだろ」
ページを繰ると、アルバムは主役はやはり新郎新婦……いや、新婦だった。いかにも着せられた感のあるタキシード姿の新郎に較べ、新婦は晴れの衣装を着るために生まれてきたかのようにドレスがばっちりはまっていた。
「奥さんとは、どこで知り合ったの?」
「会社の近くの花屋。上司の退職祝いの花買いに行った時に、接客してくれたのが彼女で」
どうということもない話だろうに、眞吾は頬をほんのり赤らめた。
「ほぉー。俺が北の大地で一人奮闘してる時に、お前にはそんなことが」
「いや、でも、最初会った時は全然こんなことになるなんて思ってなかったんだよ」
「ほんと!眞吾さんってば、最初は私にすごく素っ気なかったんですよ」
コーヒーと菓子を載せたトレイを持った菜々花が、台所から姿を見せた。
「ふふ、すみません。さっきから二人の話、漏れなく全部聞いちゃってました」
「こっちこそ、なんかすみません。眞吾はどうやってこんなきれいな女性と付き合えたのかなぁと思って」
「『付き合えた』なんて、私の方からお付き合いを申し込んだのに」
「でも、僕だって最初に会った時から菜々花さんのこと…」
竜己がいよいよ新婚ののろけが始まるぞと微笑の裏で身構えたところに、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。竜己はすぐにパンツのポケットからスマートフォンを取り出し画面を確認したが、着信は入っていなかった。
「ごめん、職場からだ」
そう言ったのは眞吾で、彼は電話の向こうの相手と話し始めた。
「お疲れ様です。……いいえ。……いえ、サーバーに上げておきました」
仕事モードに入ってしまった眞吾の横で、竜己と菜々花は顔を見合わせた。
「そうそう。カトラリーセット、ありがとうございました」
「あれ、大丈夫でしたか?結婚祝いだったら、もっと華やかな感じのがいいとかって勧められたんですけど」
「いえ全然、シンプルので嬉しかったです。手持ちの食器とすごくよく合うんで」
「ごめん。ちょっと長引きそうだから、向こうの部屋で話してくる」
スマートフォンの通話口を押さえながら言った竜己は、初対面の二人を残し廊下へ出て行ってしまった。竜己は気拙さと心細さから、友が閉めていったドアをしばらく眺めた。
「眞吾、忙しそうですね」
「昔から頑張り屋だからな。お前は?相変わらずヘタレしてんのか?」
「え?」も「は?」も出てこない。人は真に驚いた時、無言になる。
竜己がぎこちなく振り返ると、笑顔の美女が居た。ただ、笑顔の種類がさっきまでとは違う。やたらと男前だ。それに、声。ハスキーな女性の声でなく、完全に男の声だ。
「久し振りだなぁ、茂木。十一年?いや、お前すぐに退部したから十二、三年ぶりか」
「えっ?えっえっ?」
ようやく声を発せたと同時に考える。これはきっと、新婚夫婦が思い付いた、妻の低い声を利用して仕掛けた悪戯だ。いや、ホント、びっくりさせられた。
「わからないか?野球部で一年上だった押川(おしかわ)だよ。おまえら陰で鬼川とか言ってたから、そっちの方が思い出すか?」
「えっ、えっ、えっ――…」
十年以上前に誰より何より恐れていた先輩の顔の幻影と、今目の前にある化粧が施された細面の女性の顔とが重なり、……ぴたりと合った。
悪戯じゃない。彼女は彼で、彼は彼女だ。
「ええーっ!」
「さっきから、『え』ばっかかよ」
「だって、え、あの、その」
「なに?」
「眞吾、眞吾は、知ってるんですよ……ね?」
押川は笑みを深くした。これは完璧、後ろめたい感じのやつだ。
「いや、気付いてない」
竜己はまたしても、絶句した。
ここ十年の間に日本で、世界でも、性の常識は劇的に変化した。性の多様性が社会的に認知され受け入れられるようになり、同性婚も多くの国で可能になった。竜己にとってもその時代の変化は身近なもので、数年前に従姉妹が結婚した男性は元は女性として生活していた人だったし、半年前には同僚がゲイ同士のカップルとして結婚式を挙げた。
だから、昔からの友人の新妻が男性であったとしても、それほど驚くことでもないし、なんの問題にもならない。問題は性別ではない。問題は彼女が元「押川尚人(ひさと)」であったという、その一点だ。
「それって、マズイですよね」
「マズイ、かなぁ?」
「マズイでしょ。だってあんた、高校時代に眞吾にどんな目あわせたか、忘れたわけじゃないでしょう?」
「うん。憶えてるな」
中学生の時から友人同士だった竜己と眞吾は、同じ高校に入学すると揃って野球部に入部した。そこで二人が出会ったのが野球部二年の押川であった。押川は上下関係の厳格な部の中でもとりわけ厳しい先輩部員で、一年生部員たちは彼のことを密かに「鬼川」と呼んだ。
「鬼川」はなぜか傍から見ても明らかに眞吾を特別にしごきまくった。竜己などは特別でもないしごきに負け二年になる前に野球部を退部したが、眞吾は「鬼川」のしごきに耐え、三年生でついにレギュラーの座を勝ち取った。
確か、成人式の夜だったろうか。友達グループで初めて酒を酌み交わした場で眞吾は竜己に言った。「あいつがいたから、今の俺がある」と。そして、こうも言った。「絶対絶対絶対、二度と会いたくない。同じ空間の空気すら吸いたくない」。普段は穏やかで人の悪口を言うことも全く無い眞吾の、その彼が言ったと思えない衝撃的な発言だった。
「マズイっていうか、ヤバイでしょ。完璧に」
「そうだよなぁ」
「いや、待って………眞吾、とっくに気付いてるでしょ?だって、『押川』なんて苗字そうないし。性別が変わっていたとしても、いくらなんでも眞吾だって流石に気付くでしょうよ」
「再会した時に俺、『佐藤』だったんだ」
「……」
「以前の妻の姓な。俺バツイチだから」
友人の妻の新たな経歴がまた一つ明らかになったが、今は問題はその件ではない。
「………結婚前に、眞吾も一回は先輩の実家に挨拶行ったでしょう?その時とかに、『押川』って…」
「ウチの両親離婚してて、宇佐美は旧姓に戻した母親にしか会ってない」
竜己の中で「気付いてる」「気付いていない」の間でゆらゆら揺れていた針が、ぐんと「気付いていない」の側に大きく傾いた。
「ヤバイ」
「やっぱ、ヤバイか」
「……なんで、眞吾と結婚…いや、付き合っちゃたんですか。だって、嫌いだったでしょう?眞吾のこと」
「嫌いなやつなんかと付き合わない」
「だったら、なんで好きになっちゃったんですか。昔はあんだけ嫌いだったのに」
「昔から好きだったけど?」
「ん?」
「昔から、高校の時から俺、あいつのこと好きだけど?」
「ん―――っ?!」
好きで、あの態度だったと?たった一人だけに追加で過酷な練習を課し、全部員の前で終わりの見えない説教をくらわし、ミスをすればすかさず罵倒し…そんな扱いをしておきながら、「好きだった」だと?
「信じて貰えないのはわからなくもないけどな。あの時は俺も自分の気持ちになかなか素直になれなくて、でも、あいつとは関わり持ちたくて。それなのに、あいつときたら俺を見るたびに怯えてばっかでさ。悲しくて遣る瀬なくて、つい辛く当たっちゃってたんだよ。今となっては、俺なりに反省してる」
「周りから見てたら、『辛く当たる』ってどころじゃなかったですけど?」
「そっか…。なぁ、あいつ、どう思ってるかな?俺の、高校時代の俺のこと。なんかおまえに言ったりしてたことある?」
「なんかって…」
「同じ空間の空気すら吸いたくない」って言ってましたよ。とは、告げられたかった。
「どうだったかな。あんまり高校の頃の話とか、最近はしませんし」
「そっか…」
そういえば、高校時代に竜己の家に泊りに来た眞吾が「あいつ、死ねばいい」と物騒な寝言を言っていたこともあった。「あいつ」が誰かは明白だったなんて、そんなことは尚更口にできない。
背後からガチャリと音がした瞬間、押川は菜々花へと切り替わった。その変化といったら、素晴らしく鮮やかにして速やか。
「ごめん。せっかく来てくれてるのに」
廊下から戻ってきた眞吾は元いた菜々花の隣に座った。そこが彼のこの家での指定席なのだろう。
「いやいや。大変そうだな。大丈夫だった?」
「うん。ちょっとデータの場所聞かれただけだったから。それで、俺のいない間に二人はなに話してたの?」
眞吾に聞かれた途端頭の中が真っ白になってしまった竜己とは違い、押川は堂々としたものだった。
「高校時代の話。眞吾くん、三年の時に念願の野球部のレギュラーになれたんだって?たくさん部員のいる部だったっていうのに凄いね」
そういうあなたは一年から一軍、二年でエースピッチャー、三年では副将なんかもされてましたね。そんなことは決して言わずに、竜己は笑顔で頷くのみだった。
眞吾に夕飯を食べて行けと誘われた竜己だったが、今日は明日の移動に備えてゆっくり休みたいからと六時には新婚宅を辞した。実際のところでは、友に対し大きな秘密を抱え、しかもその秘密の根源を目の前にし続けるなんてことには耐えられず、一刻もその場から離れ早く一人になって落ち着きたかったからだった。
住宅街の道をまだ涼しい夏本番手前の七月の夕風に吹かれて歩き、竜己は今晩の食事を考えた。こういう時は一人で酒を飲みたい。餃子屋でビール?脂っこいラーメンなんかもいい。口の中を食欲で滾らせているうちに近付き過ぎた他人事からの逃避の道筋が立ち、竜己は自分の気力がすこし戻ってきた気がした。
「竜己!待って」
背後から聞こえてきたのは眞吾の声だった。竜己は滲み出ていた唾をいっぺんに飲み込んだ。
「駅までの道、ちょっと複雑だから送るよ」
「スマホの地図見りゃ大丈夫だよ」
「…っていう言い訳して、家出てきた」
竜己に追いついた眞吾は歩みを緩め、友の横を歩いた。眞吾と二人きり。一対一。これは、良くない状況だった。そうそう動じることのない押川は、今はここにいない。駅までは、あと十分くらい。それまでの間、隠しきれるのか?
「さっきさ。俺が会社の電話に出てた時、菜々花さんと何の話してたの」
きた。きたぞ。
「何って、そりゃ、……言ったじゃん、お前が努力の末にレギュラーになったって話。そんなんだけ。そんなん話しかしてないよ」
「そっか。ごめん、俺、変だよな。俺が電話から戻って来た後、菜々花さん、初対面と思えないほどお前がいて楽しそうだったから。あの人、ああ見えて意外と人見知りだからさ。それが珍しかったというか…」
昔からのんびりしているようで、眞吾は偶に妙に敏感だ。だから、こいつに隠しごとなんかしたくないっていうのに。というかそんなに敏感なら、もっと重大な事実に自力で気が付いていてほしい。
「そりゃ、俺がお前の友達だからだよ。それに一コ下だから気楽だったんだろう」
「うん。ごめん。俺、結婚までしたっていうのに、菜々花さんのこととなると色々気になっちゃって。他の人と付き合ってた時は、こんな嫉妬深くなかった筈なのにな」
「……本当に好きになれる人と出会えたってことだろ」
こんな空々しいことも言えたんだ。竜己は自分自身を不快に思った。
「でも、菜々花さんは特別なんだ。あの人を会社の近くの花屋で初めて見た瞬間に背中に何かが走って、貫かれた気がして、その場で倒れそうになった。そんな風な感覚、その時まで女性に一度も持ったことなかった」
……気付いていた。眞吾は気付いてた。彼の身体は天敵に正しく反応できていたのだ。ただ、頭の方が盛大に勘違いしただけで。
「それからは、彼女が気になって仕方なくなった。花屋を通りがかるたびに、ウィンドウ越しの彼女から目が離せなくなって。それが、可笑しいだろうけど今も続いてる。彼女が何を言うのか、するのか、何を考えているのか、そんなこと考えてばっかだよ」
風に運ばれ、どこかの家からかやって来たカレーの匂い。カレーも、たまにはいいな。でも、今晩食べるなら欧風じゃなくてスパイスカレーがいい。
「竜己?」
「え、ああ、なんだ、……おいおい、のろけかよ!」
「のろけ、かな?みんな、こんな感じなのかな?」
「いや、どうだろう?俺はそこまで誰かに夢中になったことないから…」
突然、気が付いた。今が、チャンスなんじゃないか?新婚の妻が実は、思い出したくもない、二度と永遠に関わりたくない高校時代の先輩だと。眞吾が自覚している違和感を口にした今こそ、真実を告げるチャンスなんじゃないか?
「……眞吾さ、」
「ん?」
「あの…」
喉まで暴露話がせりあがってきたところで、竜己は考えてしまった。どうして、押川は最大の秘密を自分にばらしてきたのだろう?それは、そんなのは竜己の口から真実を眞吾に伝えて欲しいからに決まっていた。秘密が大きく重くなりすぎてしまった今、人に重大な告白の役割を押し付けたのだ。
野球部時代、押川に言われたことがある。「お前はプレッシャーに弱すぎる」。プレッシャーに弱すぎる男に、だからあえて押川は秘密をばらした。そいつがプレッシャーに負けて、秘密を漏らすだろうと思ったから。確かに押川に言われたことはその通り図星で、だからといって人を馬鹿にし過ぎている。
「そういう気持ちさ、奥さんに話してみれば?」
「えっ、なんで?引かれるだけだよ。べつに俺の問題で、菜々花さんにどうこうしてほしいって話でもないし」
「具体的にどうするとかどうしてもらうとかじゃなくてさ。もやもやをただ聞いてもらうっていうのもいいんじゃないか。夫婦なんだし……って、俺、結婚したことないけどな」
「でも、菜々花さんを困らせるだけじゃないかな」
「ちょっとぐらい困らせてもいいじゃん。他人じゃないんだ」
多分、困るどころじゃないだろうな。それで、彼女は、彼は、本当のことを何もかも話すだろうか。そうしたら、眞吾はどう思う?どうなる?可哀相な、俺の友達。
「そう、だよな。もし引かれたなら、それだけの関係だったってだけかも」
ここで何もかもを第三者的立場の人物から聞かされた方が、まだ眞吾にとって傷は浅いだろう。でも、自分をみくびってきた押川に腹を立ててしまっていては、それができない。
それにお互い傷が深くなったとしても、押川本人が眞吾に真実を告げた方が、二人の関係を続く可能性が残るのではないだろうか。その可能性はそこそこにありそうなのか、僅かだけなのか、殆どないのかは、当人でない人間にはわからないけれど。
「餃子とラーメンとカレー。お前だったら、晩飯どれ食べる?」
そう友人に聞きつつも、竜己はもう決めていた。今宵は空きっ腹にビールだけを流し込み、そのままシャワーも放棄して寝てしまうつもりだ。
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