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月明りが差し込んでいる、わずかに開いたカーテンの隙間。少年はそこから、窓の向こうをこっそり覗いてみた。
――男性の、背中が見えた。彼は少しも着崩さず、きっちりとスーツを身に纏っている。
お父さんがいつも仕事に行くときに着ている服装に似ていたので、もしかしてベランダにいるのはお父さんかと少年は思った。
しかし、闇夜に溶けそうなほど真っ黒なストレートの黒髪を目にして、その予想は外れたことを知った。
少年のお父さんは癖のある毛髪だ。月を見上げる後ろ姿は、明らかに異なっていた。
誰だかわからない人物が、ベランダにいる。
その事実を呑み込んだ後も、少年はその場から動かずにベランダに佇む彼を見つめていた。
突然、少年は「わっ」と声を上げた。ストレートの黒髪の彼が、急にこっちへ振り返ったからだ。
驚いて口を大きく開けている少年に、彼は目元涼しく笑いかける。
その微笑みは、月夜に妖しく照らされていた。
(よかった、怖い人じゃなさそう)
なにを根拠に、と問われたら、彼の表情からは怖いものをまったく感じなくて優しそうだから、とおそらく少年は答えただろう。
得体の知れない彼という存在に、少年はすでに、それは自分でも無意識のうちに、気を許していた。
少年は「なにしてるの」と彼に話しかけてみた。
彼から返事はない。窓が閉まっているから、声が届いていないみたいだった。
少し迷ってから、少年は窓の鍵を開けた。
透明な硝子窓を横にスライドさせていくと、虫たちの合唱が近くなり、夏の草木の香りが部屋を満たしていった。
「なにしてるの」
改めて、少年は彼に訊ねた。それに彼は微笑んだまま言った。
「食べにきたんだよ」
少年はどういう意味かわからずに、首を傾げる。
「なにを食べにきたの?」
「とてもおいしいもの」
少年は今日、やんちゃをしすぎてお母さんから取り上げられてしまったおやつを思い出した。
もしかしたら彼は、自分の食べられなかったおやつを横取りしにきたのではないかと思った。
「ダメだよ、明日お母さんに謝って、僕が食べるんだから」
むっとして少年が言うと、彼はおかしそうに口元に手を当てて笑った。
「違うよ。それよりもっと、おいしいものだよ」
なおさら首を傾げた少年に、彼が一歩、歩み寄る。
夜風が静かに呼吸をして、優しくカーテンを揺らしていた。
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