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1.記憶
吐いた。
便器に顔をうずめ、息が落ち着くのを待つ。
自分の吐瀉物をぼんやりと眺めながら、開智はふと、胸のあたりにさっきまで感じていた不快さとは別の感覚があることに気づいた。
不思議に思って、そこにはっきりとした意識を向けてみたとたん、感覚は消えた。いや、それはたぶん消えたというよりは、覆い隠されたという方が正しかった。
「だり」
手洗い場でゆすいだ口元を拭き顔を上げると、鏡に映った自分と目が合う。
さっきまでの取り乱した姿を思い出させられたようで苛立った。
「死ねよ」
*
教室に戻るとクラス中が慌ただしい雰囲気になってくれていたおかげで、何事もなかったかのように自分の席に戻れた。
一番後ろのドアに近い席で良かったと心底思った。
「やべー」
「あれオメガの?」
「あいつオメガだったわけ?」
「発情期とか初めて見た」
授業中、教卓の前に座っていた中田の発作が始まった。クラスの誰も、中田がオメガだとは知らなかったので、最初は何が起こっているのかわからなかった。
教師は異変に気づき「お前らは俺が戻るまで静かに自主学習してろ」と言い残し、中田を医務室へ運んで行った。
静かに、とは言われたもののそんなこと守れるはずもなく、その場にいた全員が、教室を出ていった中田たちの足音に耳を澄ませ、気配が遠くなったと共に興奮し喋り始めた。
女子生徒は中田を心配する口調のようでいてしかし内心、いま起こった事件にテンションがあがって楽しんでいるのがわかる。
男子生徒も表面上は似たような反応をしていたが、明らかに別の興奮をしている者も数名、いた。
「あれ、開智お前どこ行ってた?」
前の席の諒太が振り返って言う。
「クソしてた」
諒太はなぜかそれがツボに入ったらしく、ひとしきり笑ったあと涙を拭きながら、さっきお前がいない間にオメガの発情事件が起こってな、と事の詳細を語ってくれた。
開智は何も知らなかったかのように「マジかよ」「俺も教室いればよかったわ」などと事件を茶化すように応える。
頷きながら諒太は携帯をいじり、ため息をついた。
「あいつ男のくせにナヨナヨしすぎだと思ってたらオメガだったとか、ほんまきっしょいわ」
諒太は顔をあげて「な」と笑いかける。
「マジでそれ、抑制剤ぐらい飲んどけよな」と笑い返したが、開智は諒太が平静を装うためにわざと辛辣な言葉を選んでいることがわかった。
諒太はアルファだ。
アルファはオメガの出すフェロモンに異様な興奮を示す。
そしてオメガとは言っても、男の出すフェロモンに興奮してしまった諒太は、その事実を隠したかったのだ。
「開智がクソぐらい我慢してればアレが見れたのにさー、タイミング悪すぎかよ」
タイミングが悪かった。
諒太はそう言う。
開智は心底残念そうなそぶりを見せた。
「マジで俺も見たかったわ」
違う。
開智はあの時、まだクラスの誰もが気づいていないであろうオメガの匂いを察知した。
次の瞬間には強烈なフェロモンの波が来る、とわかった。だから逃げたのだ。
開智はアルファだった。
しかし、なぜか昔から男性オメガのフェロモンを嗅ぐと吐き気を催してしまう。
原因はわからないし、誰にも、親にさえ言ったことがない。
だからわざわざ男性オメガが少ないこの高校を選んだのに、このザマだ。
「オメガは死ね」
小さく呟いた。
携帯を眺めていた諒太にはそれがよく聞こえず聞き返してきたが、何も答えなかった。
開智は、男のオメガが大嫌いだった。
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