1.記憶

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「ジジイキトク、スグカエレっと」  開智は携帯で打った文章を眺めながら、意地の悪い笑みを浮かべ、送信ボタンをタップした。 「開智、もう凪に連絡しちゃった?」 「いま送った」 「凪にはお爺ちゃんっ子だから一応連絡するけど、お爺ちゃん、ちょっと転倒しただけだからねってちゃんと付け加えといて頂戴。じゃないとあの子、寝起きのパジャマ状態でも今すぐ空港向かっちゃうんだから」  開智は「りょーかい」とヘラヘラ笑いながら、母の頼みを無視した。  その二日後の夜、姉がドイツから帰ってきた。 * 「お゛じい゛ち゛ゃ゛ん゛はっ!?」  凪はその声に、黙ったままノートパソコンから目をあげる。  開智だ。 「殺す……っ」  開智は昨日、メガネで髪ボサボサのまま、明らかに寝巻きにしているであろうスウェットで帰宅し、「お爺ちゃんは?」と泣いた姉を見て大笑いした。  状況が飲み込めていない父と母は凪を宥めながら、一体どうしたのかと聞いていくにつれ、開智と凪の証言が全く異なっていることに気づき、開智をこっぴどく叱った。  しかし開智は捨てられた山姥のような見た目で叫んでいた姉が大層面白かったらしく、反省の色を見せつつもすぐに姉のモノマネレパートリーに追加したのだった。 「殺す!」  凪はもう一度開智を見て、すぐにパソコンに目を移し、ドイツ語で喋り始めた。 「弟。邪魔しに来た……殺したい」  通話相手は向こうにいる彼氏か友達かはわからないが、とにかく「弟殺したい」という台詞で大笑いしてくれる奴らしい。  弟と仲がいいんだね、とも聞こえてきた。 「いや、仲良くない。昨日絶縁した」  凪は真剣な表情でそう語っていたが、開智は笑いながらそれを見ていた。  たぶん通話相手も開智と同じような表情をしているのだろう。  しかし凪はチロリと開智を睨み、また話し始める。 「言っとくけど弟はね、クズなんだよ。どのくらいクズかっていうと……」  ドイツ語だと開智にもわかるといま気づいたのか、ハッと神妙な顔をして続きをベンガル語で話し始めた。 (やっぱうちの姉ちゃんはおもしれーな)  開智はしみじみとそう思った。 *  凪はメロンパンを吟味していた。  家政婦の野崎さんに教えてもらった美味しいメロンパン専門店に行き、全種類買ってきたらしいそのメロンパンを前に、凪は真剣な眼差しを向ける。 「やっぱオーソドックスが一番だよっ」  そう言いながら、一番シンプルなメロンパンを手にする。メロンパン専門店に行く必要があったのかと聞きたい。 「お爺ちゃんはたぶん一番これが好き」  いそいそと我が子を抱えるようにメロンパンを抱き、ヘルパーさんに、祖父にこれを食べさせてもいいかどうかを聞きに言った。  戻ってきたときには新たに煎茶も装備していた。 「喉に詰まらせないようにって!」  怖いので開智は姉が祖父にメロンパンを与える様子を最後まで見届けることにした。  祖父は開智たちが部屋に入ってきてもボーっとしていた。  凪が声を掛けると、ニタ……と笑ったが、それが誰か知っているのかはわからない。  凪はそんなことを気に留める様子もなく、お爺ちゃんの好きなメロンパン買ってきたよと煎茶を祖父の口にぶち込む。  開智はその光景を近くでつまらなさそうに眺めていた。 「凪のことも忘れたんだな」  凪はその言葉を無視し、祖父に最近の自分の周りで起きた出来事を楽しそうに話す。 「もう爺さん、俺たちのことも誰かわかってねーぞ」  凪は振り返った。  怒られるかなと思ったが、凪はフッと笑った。 「開智はバカだね」  それは子どもをあやすような口調で開智はムッとしたが、反論しようと開いた口に言葉はつづいてくれなかった。
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