1.記憶

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「んで今日ドイツに帰った」 「お前んちのねーちゃん面白すぎだろ」  昼休み、昨日までの出来事を面白おかしく周りに話した。  開智が姉の生態をこうやって周りに話しているせいで、凪に会ったことのない友人たちも面白がって「最近の姉ちゃんの様子は?」と聞いてくるようになった。  こういう〝どうでもいい話〟というのは日常をつぶすのにちょうどいい。 「あ、そういえばさ……中田、休学するって」  開智は少し眉をあげた。その話題に対する不快さを悟られぬよう、おどけたような顔も付け加えて。  諒太はそれを知ってか知らずか、続ける。 「転校するんだろうな。まあ、またオメガに発情されたらこっちも迷惑だし、そうした方がいいよな」 「俺は興奮しない」  諒太は、え、と言葉を詰まらせる。 「俺はオメガが発情しても、興奮しない」  開智は苛立ちを隠せず、突き放すように言った。 「……お前、インポ?」 「違う」  苛立ちを察した諒太が空気をかえるように茶化したが、開智の苛立ちは収まらなかった。  開智がオメガのフェロモンに発情しないというのは嘘ではなかったが、〝男のオメガに〟ということは言わなかった。  これには何か原因がある、ということはなんとなくわかっていたが、それを明確にすることがなぜか恐ろしかったのだ。 *  開智はA女子高の近所のコンビニで携帯をいじっていた。  下校時だったのでA女子の制服を来た女子生徒の集団がよく通り過ぎる。そのたび開智は携帯から目をあげ、顔を確認した。  目が合ったA女子の生徒たちはあからさまに動揺したり、顔を赤らめて髪の毛をいじったりしていた。  おめーらじゃねーしと心の中で呟きながらまた携帯に目を落とす。 「開智っ」  ようやく待っていた人物が現れた。 「お」  携帯をポケットにしまい、笑いかけた。 「おせえ」 「ごめん、今日日直だったの忘れててー」  甘えるように上目遣いをし、許して、と見つめてくる柚子の表情に、今すぐ押し倒しくなった。  柚子はベータの女性だ。  開智はベータの──よくいるベータの女に、こんなにも興奮できる自分こそ、めちゃくちゃ健全だと思った。 「ちょっと飲み物買ってくるから待っててー」  そう言いながらコンビニに入っていく柚子の後ろ足を眺めながら、早く野獣のようなこの興奮を、柚子にぶつけたいとも思った。 * 「おかえり」  開智が家に帰ったのは夜二十一時を過ぎた頃だった。  ソファーで偉そうに足を組み、開智に声をかけた姉の姿に驚いた。 「は? なんでいんの?」 「飛行機が遅延してたから」 「は?」  凪は母と一緒に果物をつつきながら映画に視線を戻す。 「遅延って言っても空港で待ってりゃよかったろ」 「空港で二時間も待たされたのに、それでもまだいつになるか分からないって言われたんだよ!」 「いや、待っとけよ。その二時間が無駄になっただろ」  堪え性ねえな、と通学カバンを投げ捨て「腹減った」と家政婦さんを探し始める開智の遠くで、凪が口を尖らせ、呟いた。 「なんとなく帰らなきゃって思ったんだ」 *  祖父は週末、眠るように亡くなった。  前日の夜、凪はいつものように祖父の口にミカンをぶち込みながら雑談をし、祖父が眠そうにしたので後はヘルパーさんに任せて「おやすみ」と祖父の頭を撫でた。  いつもの調子で寝た祖父は、そのまま穏やかに死んでいった。あまりにも綺麗な流れで死を迎えたので、開智は思わず「理想の死に方じゃん」と呟いた。  家の中は慌ただしくなっていたが、その開智の言葉に一瞬全員が固まり、父が「そうだなぁ……」と感慨深げに頷いた。  姉は意外にも取り乱していなかった。  泣いてはいたが、静かに笑って祖父の頬を撫でていた。
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