9.春風

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 電話を切ると、開智がゆらりと立夏の方へ身を乗り出し、言った。 「人工的に出来る医療技術があっても、オメガの男の身体は元々妊娠や出産に向いてない」  不穏な気配を感じ、立夏は全くその通りだと全面同意をしつつ後ずさりし逃げの姿勢に入った。  しかし開智は退路を塞ぐかのように立夏の後方に周り込む。 「りっちゃんも言ってたけど、オメガの男のそれは死ぬ確率が女より遥かに高いよな?」  背後を取られてたまるものかと立夏は振り返り「ほんとそうなんだよ」と言って両脚を開き、その間を手でぽんぽんと叩きながら開智に腕を伸ばした。いつものようにここに座れという合図だ。  しかし開智はその誘導には乗らず、また立夏の背後に周り、後ろから引っ付いた。いつもと逆パターンの配置だ。後ろにまわった時の開智はしつこい。  そしてこの配置は開智のアルファ性が強く出ている時によく見られる光景だった。 (終わった……)  立夏は捕獲され死んだふりをする動物のように目を瞑った。 「で、さっきなんで母さんとその話してた?」 「その場のノリだって……子どもつくるなんて考えてないよ」 「だよな? りっちゃん出産する時いかにも死にそうな面してるもんな?」  それは失礼だろと立夏は言ったが、確かに立夏が女であっても出産時に死にそうな面構えをしていそうなので、開智の表現が何となくわからないでもない気はする。 「前にも言ったけど、りっちゃんが死ぬ確率が高いものは絶対やらせねえからな」  同じような理由で開智は立夏の交通ルールには異様に厳しかった。不慮の事故で立夏が死ぬ率を下げたいらしい。  開智は後ろから立夏を抱き──いや、羽交い締めにし、その髪に顔をうずめる。 「……俺を置いて先に死んだりしたら殺してやるからな」  先に死んだら殺す。  なにかがおかしかったが、言いたいことは充分伝わってきたので立夏は頷いて開智に手を回し頭を撫でた。  それでも開智は立夏から離れる様子がなかったのでしばらくそうしていたが、暇になってきた立夏が「今日の晩ご飯何食べたい?」と聞くと開智は顔をあげ「油淋鶏」と即答し、また立夏の首元に顔をうずめる作業に戻る。  どうやらまだそうしていたいようだった。  日が落ちてきた。  開智は立夏を抱えたままソファに座り、その尻を撫でながら一緒に映画を観ていた。  立夏は脚をクロスした状態で膝裏を抱えられながら変な体勢で尻を撫でられ続けるという傍から見たらどう考えてもおかしい状況だったが、慣れているのか気にせずに真剣な顔をして映画に目を向けている。  開智もただ柔らかい部分を撫でて安心していたいだけのようで、映画が緊迫したシーンになるとストレス値が上がるのか立夏の尻を鷲掴みにしては「痛い」と怒られていた。  立夏に怒られて我に返ったのか、開智は部屋の色が淡い桃色に変わっていることに気が付いた。  窓に目を向けると、それは夕陽の色だった。 「今日の夕焼け、すげえな」  立夏もその言葉に窓の外を見て「ほんとだ……綺麗だね」と呟き、立ち上がって見に行こうとしたので、開智は手を離して着いて行った。  ふたりでベランダに出ると、空は桃色と紫に染まっていた。 「綺麗……」  立夏はそう呟きながら携帯を取り出し空を写真に撮ったが、撮れた写真を見て残念そうな顔をしていたので開智が覗き込むと、携帯の液晶ではこの色の美しさがちゃんと写らないようでしょぼい写真になっていた。 「いま目に焼き付けるしかねえな」 「そうだね」  ふたりでじっと西に沈んでいく夕陽を見た。  開智はベランダの手すりに肘をつき、その不思議と美しい夕陽の色を反射する立夏の髪の毛を後ろから眺めていた。 (綺麗だな……)  立夏はしばらく滲んだ空を見ていたが、何かを思い出したように開智のほうを振り返り、微笑んだ。 「好きだよ、開智」  あまりにいきなりのことだったので、開智は無言で固まってしまった。  立夏の後ろから緩やかな風が吹き、靡く髪が深い桃色に染まる。 「好き」  もう一度そう言って、また沈んでいく夕陽を眺める立夏の後ろ姿は美しかった。  開智は空の色と共にその姿を目に焼き付け、ゆっくりと目を瞑った。  立夏の甘い香りが風に乗って開智の鼻腔をくすぐる。 (幸せだな……)  そうだ。幸せだった。  そしてそれがいま、確かにここにはあった。 《おわり》
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