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黒い傘の下で
「敬語……佐伯さんらしいと言えば、そうなのかもしれないね。今更変えろって言われても困るか」
急に真島君がそう言った。
「いえ、でも嬉しかったです。本当はもう少し砕けた話し方もできるようになりたいなと……思っていたような気がします」
「そう? じゃあ良かった。俺で良ければ練習相手になるよ」
楽しそうな顔で言ってくれたから、私もつられて素直にお願いしてしまった。
「お願い……し……」
慌てて語尾を飲み込んだ。
「無理しなくていいから、ゆっくりとね」
「は……うん」
真島君は、私の答えた『うん』を嬉しそうに聞いてくれた。
やっぱり、優しい人。
そのまま、寄り添うように歩く。
ああ、でも後5分くらいで、駅に着いちゃう。
なぜか私は寂しく思ってしまった。
このまま、ずっと一緒に歩いていたい。
そんなこと、恐れ多くて思ったこともなかったのに。
真島君、優しすぎるよ。こんなことされたら、誤解したくなっちゃうよ。
もしかしたら、私のこと好きかもって。
自分に都合のいいように考えたくなっちゃうよ。
「佐伯さん、今度から、下の名前で呼んじゃだめかな?」
「え?」
とうとう本日七度目の『え?』が来た。
「そ、それは……どうしてですか?」
「俺の事も、瞬って呼んでいいからさ」
口をパクパクさせている私を見つめながら、
「その方が、砕けた話し方の練習になると思うんだ。まあ、敬語は真理ちゃんのいいところでもあるけどね」
『え?』
まりちゃん! いきなり下の名前!
本日八度目の『え?』を、必死に胸の中に留めて、私は真島君の顔をもう一度見上げた。
真島君は、いたずらっ子のような笑顔を見せて「いいよね!」と念を押すように言った。
いいも何も……あなたにそんなこと言われたら、NOなんて言えないよ。
この状況をどう解釈すればいいのか……私はもう頭の中が真っ白になっていた。
駅まで後一歩。
真島君が急に足を止めた。
グッと私の肩を真正面に向けるように抱き寄せた。
傘の中、持ち手を挟んで向き合う。
「もうちょっとだけいいかな」
物凄く真剣な真島君の表情に、思わず頷く。
「俺さ、あの時分かったんだ。君は、君だけは、本当に俺のことだけを考えて、心配してくれているんだって」
真島君の瞳が近づいて来た。
「あの時、声をかけてくれてありがとう。俺を救ってくれてありがとう。嬉しかった」
そして一言一言、大切そうに言ってくれた。
「俺の彼女になって欲しい」
「俺の傍に居て欲しい」
「ダメかな?」
最後の一言は、耳元で囁くように。
ああ! 顔が熱い……
心臓がバクバク
「大丈夫! 深呼吸、深呼吸」
真島君が慌てたように言った。
スーハー スーハ―
ようやく息が楽になって見上げると、真島君の切羽詰まったような瞳とぶつかった。
冗談で言っているのではないことがヒシヒシと伝わってくる。
嬉しさと驚きでいっぱいだったけど、
今だけは、自分の気持ちに素直になりたいと思った。
「ダメじゃないです」
「はー良かった」
緊張が一気に解けたように、真島君の肩から力が抜ける。
「ダメって言われたらどうしようかと思った」
そう言って、少年のような無邪気な笑顔を見せてくれた。
こうして、私達の恋は、黒いなんの変哲も無い折り畳み傘の下から始まったのだった。
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