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 学校は夏休みに入った。  と言っても午前中は補習に学校へ行かなくちゃならないので、夏休みに入ったという感覚はない。完全な休みというのは、来週からになる。それもほんの一週間程度のことだ。学校の行事予定表には今日から夏休み、と書いてあるのに詐欺だと思う。  統は補習が終わり、音楽室へ向かった。音楽室は校舎からは少し離れたところにある。そこは学校の敷地の一番端にあり、授業以外ではあまり人が寄り付かない。静かでいい場所ではあるが、一度外を通らなくては鳴らない為、雨が降る日は移動が少し厄介だ。  この時間には音楽室には誰も居ない。吹奏楽部や他の音楽系の部活はみんな、向こうにある最近増設された校舎の第二音楽を使用する。この音楽室は古くて、狭いので授業でも滅多に使用されることはない。  統は中に入ると鞄を辺りに放り投げ、ピアノの前に座った。  直ぐ裏手の山からは蝉や小鳥の鳴く声が聞こえる。この自然の音を聞きながらピアノを弾くことが、統にとって至極の時間だ。  深呼吸をして、騒ぐ心臓の音を整え、ピアノに触れる。  ピアノに触るのは二週間ぶりだ。最近は祖父の手伝いが忙しかったので、しばらくピアノを弾きには来ていなかった。  本来なら今日も手伝いをしなければならないのだが、少しくらい遅れても大丈夫だろう。  そう言えば、ピアノを弾くようになったきっかけは何だっただろうか。  確か、幼い頃に連れて行って貰った小さなコンサートだ。今では誰が演奏していたのかも覚えていないが、地元の市民会館でのコンサートは統にとってはすごく魅力的な、素晴らしいコンサートだった。    久しぶりの感覚に胸が躍る。 「素敵な曲だね」  ピアノに夢中になっていると、後ろから声を掛けられ、振り返ると入り口に秋夜が立っていた。彼はやわらかな笑みを浮かべている。  秋夜から話しかけて来るなんて。珍しいこともあるんだな。  時間も忘れ、夢中になっていると、ふいに視線を向けた空はもう茜色に染まり始めている。  玄関を入ったところで怖い顔をして構えている祖父の姿が目に浮かぶ。今日は裏口からこっそり入ろう。  統はひっそりと考える。  秋夜は、入り口に突っ立ったまま音楽室の中をまじまじと眺めている。 「そこに居ないで中に入りなよ」 「うん」 「秋夜、どうしたの。何か用だった?」 「綺麗なピアノの音が聞こえたから見にきたら統が弾いていたから。こんなところにあったんだね、音楽室」 「ああ、芸術は何を取ってるんだっけ」 「書道だよ」 「そっか、普段使うのも向こうだし、音楽を取っていなかったらここに来ることなんてまずないもんな。校舎からも離れているし」  あの日以来、何だか秋夜と会話が続くようになった。秋夜もようやく統との会話に慣れてきたのだろう。 「統はピアノ、弾くんだね」 「趣味の範囲でだけどね」 「素敵だ」  秋夜はそう言うとピアノの横まで来た。そして、一指し指でドレミと音を鳴らす。ピアノを弾くことに慣れていない指の動きだ。 「ぼく、音楽はからっきしなんだ。楽譜も読めない」 「俺も楽譜は読めないよ。自然に任せて弾いているだけ」 「すごいね。あ、そうだ今の曲は何ていうの。すごく良かった。よければ、また聴きたいな」 「あれは即興だから、名前はないんだ。それともう一度同じ曲を弾くってのは……難しいかもなぁ」  即興で弾いた曲をひとつひとつ、全てを覚えているのは難しい。考えながら弾いている訳でもないので、記憶に残らないのだ。 「そうなの……」  秋夜は残念そうに目を伏せた。  少しの間があって、「とても綺麗な曲なのにね」と言った。  秋夜は寂しそうな視線を統の手元に向けている。  一瞬、その瞳に涙が見え、驚いた。  溢れた涙は頬を伝って流れおちる。  統は狼狽した。まさか泣くとは思っていなかった。この一曲のことで涙する人間がいるとは……。  秋夜は静かに涙を流しながらピアノを見詰めている。  秋夜はふとした時に繊細な表情を見せる。その表情に、いつもはっとさせられる。心臓は又しても高鳴っていた。  どういう訳か秋夜にはいつも胸を締め付けられる。 「そんな風に言ってくれてありがとう。もうあの曲は弾くことは出来ないけれど」  自分の演奏に対して、秋夜がこんな風に思ってくれるとは思わなかった。 「また新しい曲ができるよ」 「新しい?」 「そう、新しい曲。上手く云えないけどさ。時の流れとか季節の廻りみたいに、環境は変化していくだろう。だからね、こう」  上手く言葉が出ず、顔を顰め、胸のあたりで手をひらひらと動かす。でも相応しい言葉は出てこない。 「うーん……。喩え、同じ曲を弾けたとしても、全く同じには弾けないと思うよ。あの曲はあの時にしか弾けなかったんだよ。……だからもう泣くなよ。ここに水溜りができちゃうよ」  ただただ泣いているだけの秋夜の涙を拭ってやる。秋夜はされるがままにじっとしていた。  それでも涙が止まない秋夜を見兼ねて慌てて話題を変える。 「あ。そうだ、今週末さ、近くの商店街で祭りがあるんだけど……沢山の踊り手達が踊るんだ。露店もでるし、きっと面白いよ。俺は少しだけじいちゃんの露店の手伝いしなくちゃならないけど。それ以外は暇だからさ。秋夜、来る?」  ピアノを見詰めたままの秋夜の顔を覗き込む。  秋夜は黙ったままピアノを一点に見詰めている。  んー。困ったな。  統が 「そうだね、考えておくよ」  暫くの沈黙の後、秋夜は答えた。  「考えておく」というのは来ない確率の方が高い。 「数は少ないけど、花火も上がるぞ。露店も多く出るんだ」  統は何としてでも秋夜を祭りに誘いたいと、あれこれ興味を引きそうな事柄を提示する。 「もう、考えておくってば」 「ここらの祭りの中では一番規模がでかいんだ。楽しいんだぞ」  統がしつこく攻めると秋夜は「分かった、行くよ。行く」と笑った。  ようやく秋夜の涙は止まった。それを見て統は安堵した。  帰り道、統は気分が上がっていた。途中で秋夜と別れ、統は逸る気持ちを抑きれずに、スキップで帰宅した。  その後、浮かれたまま、裏口から入る事などすっかり忘れて、その後どうなったかは言うまでもない。
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