第四話 戸惑いの先に

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第四話 戸惑いの先に

4. b94d3188-8cba-4c9e-9bbb-7671db9c3415 「ルカさま、本日のお料理はフランス式ですので、スープの掬い方が違います、奥から……そうです」  ルカがこの屋敷に来て一カ月が経った。屋敷での生活は、初日から、若きルカにとっては息苦しい勉強の連続であった。  テーブルマナーを完璧に覚えるまで、ジョージと食事をすることはできない。ルカは講師と一対一で、毎食各国ごとの作法を叩き込まれる。一口食べるのにも苦労する食事の時間は、二日目で嫌いになった。  さらには、毎日八時間みっちり、教科ごとにかわるがわる教師がルカ専用書斎にやってきて、授業をしていく。通っていた高校の勉強にすら真面目に取り組んでこなかったルカにとって、そんな体験ははじめての連続で、一週間目にして熱を出し、一日寝込んだ。それ以降は、ジョージの指示なのか、執事のセバスチャンが授業一コマごとに休憩用のあたたかい紅茶とスイーツを持ってきてくれるようになったので、少し休息時間が増えたが、勉強時間を減らされることはなかった。  だが、授業についていくので精一杯だったルカも、持ち前の前向きさと勤勉さで、一週間、二週間と努力するうちに、だんだん予習復習もこなせる余裕が出てきた。特にビジネス英会話に関しては、教師も目を見張るほどの吸収力で成長していった。 (ジョージさん、最近会ってないけど、忙しいのかな)  地獄のような食事の時間が終わり、自室で次の授業の復習と予習の続きをしながら、ふと窓の外を見上げてジョージの顔を思い出す。たまに、食事の際にルカの席に直筆の手紙が置いてある。内容は、『ルカの勉強の進み具合を教師からきくに、よく頑張っているそうだから無理せず励むように』などルカを気遣う内容ばかりだ。たまに仕事に出るジョージを見送ることができても、挨拶程度でほとんど会話はない。 (……性奴隷にされるよりはよかったけど。オレ、なんでこんなに勉強がんばってるんだろう)  答えの出ない疑問を頭から振り切るように、窓の外から手元のノートに目線を移す。今は次の歴史の授業の復習と予習が先決だ。ルカは、ノックの音が響くまで、ノートと教科書をさらい続けた。 「で、あるからして……」  午後の重たい瞼をなんとかこじ開け、目の前の教師の表情を見ながら懸命に耳をそばだてていた。この時間に集中できなければ、次の授業にはもっと大変なことになる。必死に食らいつき、なんとか振り落とされぬよう一生懸命メモをとる。 (今日はなんだか、頭が重いや……)  翌日に控えた地球史とダイナミクス史の授業は、ルカが苦手とするジャンルだったので、昨夜は寝る時間を削って復習と予習を繰り返していた。最近はそうやって寝る時間を削ることにも慣れつつあるが、勉強以外ほとんどのことを執事やメイドがやってくれるおかげで、倒れるほどの疲労感はない。バイトを掛け持ち一人暮らししていたときの方が、よっぽどキツい生活だったように思う。 (少なくとも、ここにいればお金の心配はないし……あとは貞操だけ守れれば……)  ノートにメモを取りながらそんなことを考えていると、ふいに書斎にノックの音が響いた。  授業中にノックしてくる人間は、この屋敷には誰もいない。執事のセバスチャンはもとより、メイドたちも授業時間はきっちり把握しているはずだ。 「はぁい、どなたですか?」  教師が教科書から視線を外し、扉の外に声をかける。 「先生、授業中すみません。私です」 (この声、ジョージさんだ……!)  ジョージは、教師が開けた扉から顔を出し、ルカを呼んだ。 「先生、悪いが今日の授業はここで。残りは次回に回してくれませんか。ルカ、おいで」 「あ、はい」  ルカは、言われるがままにジョージの後をついて部屋を出た。 「仕事が一段落してね。ドライブでもどうかな」 「え……でも、まだ授業が」 「一日くらい休んでも構わんだろう。ここ一カ月、教師陣が驚くほど頑張っているそうじゃないか」  根を詰めすぎるのはよくないぞと、ジョージはルカの寝室に入る。迷わずジョージはウォークインクローゼットを開ける。そこには、ルカも把握しきれぬほど大量の仕立て屋(テイラー)が作った洋服が、所せましと並べられていた。 「そうだな、せっかくだ。今日は気軽な恰好で出歩こうか」  どこに入っていたのか、一度も見たことがないデニムシャツとチノパン、キャンバススニーカーを出してルカに着替えるようにうながした。いつも、どんな人が訪ねてきても紹介できるようにと、きっちりとしたワイシャツとスラックス、革靴で過ごすように言われていたので少々驚いたが、雇い主がそう言うのだからと着替えることにする。 「あの……ジョージさん」  見られたまま着替えるのは気恥ずかしく、ジョージをチラリと見ると、「あぁ、すまない」と腕を組んで背中を向けた。「終わったら言ってくれ」と言われてしまえば、その場で着替えるしかない。 (ジョージさん今日は随分カジュアルだな……スーツしか見たことないから若く見える……あれ? そういえば何歳なんだろう) 「着替えました」 「あぁ……うん、いいな。よく似合う。行こう」  ジョージの運転なことには驚いたが、お付きの者が誰もいない二人きりの空間は居心地がよかった。  ジョージは、ルカの普段の生活の話をよく聞いてくれたし、彼自身の仕事の内容や今後のスケジュールも教えてくれた。それ以外にも、互いの好きなもの――ジョージは音楽鑑賞が趣味で、レコードを集めているそうだ。ルカからすればレコードなんて代物は教科書でしか見たことがない伝説の記録物であるが――の話をしたり、雑談も楽しんだ。ジョージは終始紳士であり続けたが、初日の眼光鋭く男らしい姿とは違い柔らかくほほ笑むことすらあった。ルカはその笑顔にドキリと胸が脈打つことを意識していた。 「……先ほどの店員には、すごく凝視されたな」  ふたりは海辺でテイクアウトしたハンバーガーを食べていた。 「あはは、さすがにこんな高級車じゃ、驚きますって」 「一度ドライブスルーというものを経験してみたかったんだ。ルカが慣れていてよかった」 「お金がない時代は、ハンバーガー毎日のように食べてましたからね」  左ハンドルの高級車でドライブスルーに入ったは良いものの、初体験の注文に慌てふためくジョージを見てルカはしこたま笑った。 (初日は怖い人かと思ったけど、案外気さくな人なんだな……)  口の端についたグレイビーソースをティッシュで拭きながら、ルカは、ポテトを口に放り込むジョージを眺めていた。テーブルマナーを気にせずゆっくり食事ができたのは本当に久しぶりで、ファストフードのハンバーガーが信じられないほど美味しく感じた。嬉しくなって、思わず笑顔が出る。 「いいな……ルカ。キミは笑っている方がいい」 「え?」 「綺麗な瞳だ。真夏の美しい海と空が混ざり合った、あのブルーだ」  地球史やダイナミクス史で習った知識を動員すれば、日本にはかつて春夏秋冬という四季があったらしい。経験したことがないルカにとってそれは想像するしかないのだけれど、冬が長い今の日本にとって、短い真夏の季節は貴重な期間であることは確かだ。そんな貴重な時期に例えられ、はにかむ。 「そ、そうでしょうか……お世辞でも嬉しいです、ありがとうございます」  ふふふと笑うと、その顔をジョージが覗き込んでくる。 「本気だよ、私は」  真剣な表情に、時間が止まるようだ。  波のさざめきのわずかな音だけが、互いの周りを行き来する。 (ジョージさんって、よく見るとカッコイイよな……) 「ま、四十のオジサンに言われても、ルカは嬉しくはないだろうが」 (こんな気障な言葉も似合うし) 「……ルカ?」 「あ、ごめんなさい! いえ、そんなことはありません!」  嬉しいです、と慌ててルカは訂正し、顔をそらす。わずかに頬が熱い。 (これはきっと、奴隷症のせいだ……オレの腹の中にある臓器が呼応しているだけで……きっと)  ジョージはゴミを袋にまとめて立ち上がる。それに続いてルカも紙でできたトレイを持ち上げる。 「うわっ」 「どうした?」  ルカが驚いた声を出し、ジョージが振り返る。 「あ、あの、いえ……なんでもないです。帰る前に、どこかでお手洗いに寄りたいです」 「そうだな。私もアイスコーヒーをがぶ飲みしてしまった。そうしよう」 (今、突然刺されたみたいに腹痛が……早食いしすぎたかな?)  ルカは腹をさすってジョージの後に続こうとするが、その突き刺すような痛みは益々酷くなり、ルカはその場に座り込んでしまった。 「どうした、大丈夫か?!」 「だ、いじょうぶ……です」 「急に血の気が引いたな……熱も少しありそうだ」  ジョージはルカの額で体温を確かめると、ゴミ袋を腕に通して両手をあけ、軽々とルカを持ち上げた。 「わっ! ジョージさん、さすがに恥ずかしいです!」 「キミは軽すぎるな。とりあえず、トイレまで急ごう。家には医師を待機させる」  ジョージは、左耳に装着しているワイヤレスイヤホンのAIを声で呼び出し、セバスチャンに電話をかけて主治医を呼ぶよう指示して電話を切った。 「す、みません……なんだか、突然腹痛が……」 (吐き気までしてきた。まずいな……)  そう思いながら、ジョージの動きに身を任せる。 「外にいる。何かあったら声をかけてくれ」  公衆トイレの個室の前でおろされ、ルカは返事もそこそこに個室に入る。 (腹痛が、下痢っぽかったからあわてたけど……なんか違う……?)  突き刺す痛みの増す加減が恐ろしく、冷や汗が出る。一度トイレットペーパーで拭き取ろうとすると、ドロリをした感触が紙を濡らした。 「あ……」  瞬間、ダイナミクス生物学で習った授業が走馬灯のように流れていった。 「ルカ? 大丈夫か? ……ルカ?」  心配したように、控え目なノック音がする。恥ずかしくて、声が出せない。ルカは、洋式トイレの便座の上でうずくまり、蚊の鳴くような声を出した。 「……が……です」 「ルカ? きこえない、なんだって?」 「初潮が! きたんです!!」  やけくそに近い大声が、ふたりきりの公衆トイレ内に響いた。ジョージがトイレの扉にぶつかる音がして、驚いているであろうことがわかった。 「そうか、おめでとうルカ! いや、そんな場合ではないな、とにかくここで待っていてくれ!! すぐに必要なものを用意する! 十分、いや、五分!」  ルカが返事をする間もなく、ジョージが走って出ていく気配がする。  情けなくて恥ずかしくて、ルカは目にうっすらと涙を溜めながら、腹を抱えたまま痛みを耐えつつジョージの帰りを待った。 続
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