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「……で、その状態のまま今に至るってわけ。病院で見てもらったら『不思議の国のアリス症候群』って診断されたわ。そんな病気があるなんて知らなかった」
「じゃあ、月白は実際に摩訶不思議な世界が見えているのか? 今も?」
俺の問いに彼女は頷く。
俺は信じられなかった。まさか、小説の中で描かれていた独特の世界。あれが実際に彼女の目に見えていたなんて……。
月白は話を続けた。
「小説を書く時は確かに大きな武器になる。でも、代償は大きいよ。当たり前に現実世界で暮らせなくなるんだから。物も歪んでみえるから、さっきみたいにコップとか落としちゃうし、この症状は偏頭痛がよく起こるから、酷い時だと今日みたいに倒れちゃう。それにね……」
彼女の顔は青ざめていた。まるで、この世にいない幽霊の様に。
「私は今、生きている世界が現実だと思えないの。夢の内容も摩訶不思議な悪夢。やっと目覚めたと思ったら、まだ悪夢が続いているんだもの。そして、その悪夢は今もまだ……。私は早くこんな悪夢から抜け出したいのに……。私は未だに夢から醒められていないんだよ! あの時の『おやすみ』から醒められないんだよ! これが一生続くなんて、考えたくない……。
だから、今でも思うの。私は実はまだ夢の中に居るんじゃないかって。ある日、目覚める時が来て、そしたら一年生の時の私がベッドに居て、いつもと変わらない日常を過ごせるんじゃないか……ってね」
そこまで聞いて、俺はハッとした。彼女の書く小説は推理小説だ。摩訶不思議な世界で事件が起こるが、最後は名探偵がやってきて理路整然と謎を解いてしまう。あれは月白が悪夢から解放されたいという願いの表れではないのか?
慰めの言葉はかけられなかった。俺には決して彼女の苦しみを想像することは出来ないから。少しでも、彼女を羨んだ自分が恥ずかしかった。
「醒めるといいね。いつか……」
それだけ言うのが精一杯だった。そんな精一杯の言葉に、彼女は少し寂しそうに微笑んだ。
(完)
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