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1.うーちゃん
硬い地面を踏んでいたのに、ぐにゃりと柔らかくて、滑る感覚。変な感じがして、下を向いた。アイスクリームが落ちて、ぐちゃぐちゃになっていた。
右手に持っていたのに、溶けて地面に落ちていたのを気が付かなった。サンダルで踏んだ黄色いアイスクリームは砂利とかに混じって、汚い色になっていた。
じっと見ていたら、セミの鳴き声に混じって、おじさんの声が聞こえてきた。
「うーちゃん」
同じコーンのアイスを持った男の人が駆け寄ってくる。着ているシャツの色が薄い水色で、ぱっと見れば白。それぐらいよく見ないと分からない、薄くてふやけた色。よく似合っていた。
「おじさん」
「どうしたの。ずっと立ってるから――あ」
足元に落ちたアイスクリームに、おじさんも気が付いたらしい。
ところどころ雑草が生えた境内に落ちたアイスクリーム。おじさんはもうこれ以上の悲劇は無いって顔をしていた。
「アイス落ちちゃったんだね。おじさんのを食べなさい」
ぱっとコーンを取り替えられ、俺は手元のアイスを見つめた。ちょっと形が崩れて、溶けかけた場所がある。きっとおじさんが舐めていた場所。
俺はすぐにかぶりついた。
「美味しい?」
「ねぇ、抱っこ。抱っこして」
俺は手を伸ばして、シャツを引っ張る。朝、出かける時抱っこしてほしかったのに、おじさんは一緒に歩こうねと、手をつなぐだけだった。
多分、周りが「汐(うしお)を甘やかすな」とか「汐が泣き虫なのはお前のせいだ」とか朝、おじさんに小言を言っていたせいだ。死ねよ、クソ。碌な大人がいない。
泣き真似をしようとしても、ちっとも涙とか出てこないから、麦わら帽子を下に引っ張って、目元を見られないようにした。
「だっこして……疲れたよ」
「……そうだね。いっぱい歩いたもんね」
アイスクリームを落としたショックで落ち込んでいる--
勝手に子ども心を分かった気になったおじさんが、受け入れるように両手を広げてくれた。やったね。正直、アイスとかどうでもいい。
家で使用人に言いつければ、いつでも食べられるし。でも抱っこして貰うためには、俺は「大好きなアイスを落としてしまった子ども」を演じなくてはいけない。
「……アイス、食べたかったぁ」
「僕の全部、食べていいからね」
汗を掻いた背中を撫でられる。あやすように優しく背中を撫でる大きな手。アイスより、俺はこっちが好き。でもこの手は使用人に頼んでも、用意されない。
「……自分が汐さんを」
「あ、ウチハシ」
背中にまで回っていたおじさんの手が止まる。最悪。こいつを忘れていた。舌打ちしたくなるのを堪える。俺はおじさんの肩に顔を擦り付けた。
「おじさぁん」
「内橋、大丈夫だよ。うーちゃんは僕が抱っこするから」
おじさんの後ろにへばりついている「内橋」。禄でもない大人の1人。俺は肩からじっと内橋を睨みつけた。
一重で重たい瞼から覗く瞳はじめっぽくて、光がない。祖父が酒の席で、ヤクザから「借金のかた」に譲り受けたとか言っていた。こいつは毎晩、おじさんの布団に入ってくる。祖父が付けた世話係。俺が一番嫌いな大人。
「帰りたい」
ぎゅっと抱き込まれて、体が浮く感覚。おじさんの肩に頬を押し付けると、おじさんの首筋から、ふわりと甘い匂いが漂ってくる。
汗と混じる、この匂いが好きだった。おじさんの布団から漂ってくる匂い。シャツの一番上のボタンが外されて、首筋が見えていた。汗が滲んでいた。
舐めたらどんな味がするんだろう。俺は貰ったアイスクリームを舐めた。舌に残るような、バニラのべったりした味が口の中に広がる。
「熱いね、おうちに帰ろう」
おじさんの腕の中で、アイスを食べていると「蟻さんがきてるね」とおじさんの優しい声がした。
ちらっと下を見ると、どこから湧いてきたのか、黒くてちろちろした蟻が、ぐちゃぐちゃのアイスに集まっていた。
溶けて水たまりっぽくなった場所に、黒いびっしりしたものが集まっているのが気持ち悪い。
だんだん砂利に染み込んで、形が無くなっていくアイスに列を作る、大量の蟻。ちょろちょろ動き回りながら、群れを作っていた。
「もうすぐ夏休みだね、自由研究は蟻さんの研究とかどう?」
「……わかんない」
おじさんが歩き出すと、ゆっくりと振動が伝わってきた。ゆらゆらと優しく揺れる腕の中で、おじさんの匂いを吸い込む。ずっとこうしていたいのに、おじさんと出かける約束をしたのは、家から五分くらいの神社。いつも登下校の途中にある場所で、おじさんと出かけられる場所は少なかった。
おじさんは隣町に出かけたり、交通機関を使うことを禁止されている。そして祖父が使わせた内橋が、ずっと後を付いて回るのが約束だった。
「俺、夏休み海行きたい」
「海?いいね、行っておいで。お父さんとお母さん、楓(かえで)君とね」
「おじさんと行きたい……2人で行きたいの」
おじさんの後ろを付いて回るウチハシを睨みつけながら、「2人」を強調した。おじさんを「寄生虫」と悪口言う両親は嫌いだし、弟はまだ小さくて一緒に遊んでもつまらない。
「うーん……どうだろう」
「俺がおじいちゃんに頼むから……ねぇ、2人で行こうよ。2人で行きたい」
「お友達と行ったら?……おじさん、何も買ってあげられないよ?」
屋敷までの道のりが揺れている。熱くて陽炎を作っているのか、じりじりとあぶられる熱さの中、おじさんの首筋から汗が垂れ落ちていた。
舐めたいな
「いい、何も買わなくいい!だから2人でねぇ――」
「うーちゃん、アイス溶けちゃうよ」
仕方なく、溶けそうになっているアイスクリームを口に含む。甘い。もう半分飽きていたけど、仕方なく食べていく。
――『どうだ。うまいか、犬』
――『美味しいです。甘くてうまいです』
俺はおじさんの肩に頬を押し付けながら、内橋を見た。身長が高くてデカいから、目線が合わない。ちょっと見上げると、内橋と目が合う。
「目が合った」だけで、内橋が俺を見ていないことに気が付いた。内橋はおじさんだけを見ている。ずっとおじさんだけを追っている目。じっとりした目が気持ち悪くて、俺はこいつが本当に嫌いだ。
一昨日、布団の上で犬がおじさんにのしかかっていた。それをちょっと離れたところで、胡坐を掻いて見物していた祖父が笑いながら「うまいか?」と聞いていた。
胸を舐めていた犬は盛りが付いたみたいに、腰を押し付けていた。犬とか野良猫の交尾を見たことがあるけど、そのまんま。下で抱き潰された男がーー首筋に付けられたアザみたいな痕が見えて、ぎゅっと心臓を掴まれた気がした。
「一口あげる」
「飽きちゃったか」
苦笑するおじさんが、アイスを舐める。ピンク色の舌がアイスを掬うように舐める。俺はおじさんの舌を食べる気持ちで、おじさんが舐めたところをまた一口、食べる。アイスを食べ終わった頃、家の裏門が見えてきた。
「あら、お帰りなさい」
「ただいま、帰りました」
長年、家のお手伝いをやっている野々村さんが縁側から声をかけてきた。「汐ぼっちゃん」と声をかけられたが、無視しておじさんの胸に頭を押し付けた。
「さっき、アイスを落としてしまったのがショックみたいで……」
「あら、じゃアイスクリーム作りましょうか?」
「そうですね、でも自分の分を上げたので――」
「史郎さん!」
裏の戸口から、誰が出てきたか振り向かなくても分かった。内橋と同じくらい、嫌いな大人。
「おかえりなさい!熱かったでしょう?部屋でスイカでも食べません――って、汐はどうしたんです?」
背中から聞こえる、纏わりつくような声にイライラする。後ろには嫌いな内橋。振り向いたら、嫌いな叔父さんの出迎え。だから俺は家に帰りたくない。
「アイスを買ったけど、落としちゃって。落ち込んでしまったみたいで」
「ああ、じゃあ、俺が抱っこしますから――汐、ほら叔父さんが抱っこしてあげるよ」
「やっ」
乱暴に脇腹を掴まれて、怒りでどうにかなりそうだった。おじさんの背中に腕を回して、しがみつくようにする。
絶対に離れない。
このままおじさんの部屋に行ったら、内橋を追い出して、2人きりで過ごすんだ。引きはがすように脇腹を掴まれて、おじさんの背中に爪を立ててしまった。
「ぉじさぁん」
「……到(いたる)さん、うーちゃん落ち込んでるから」
「朝も言ったじゃないですか、史郎さんが汐を甘やかすから、すぐ泣くようになったんですよ? ――ほら、汐、宿題は終わったのか?部屋に連れてってやる」
「ぅっ……やだぁっ!!」
怒り過ぎで、目の前がぼやけてくる。泣き虫だとか家の大人は言うけど、悲しいから泣くんじゃない。ちょっと涙が出てきて、俺は大声を上げた。
「やだ!やだ!やだぁっ!!!」
「っうーちゃん、ごめん、ごめん、アイスもっと食べたい?スイカは?」
「やっやだぁぁあ!」
とりあえず、おじさんから離れなければいい。そうすれば他のやつらは諦めてくれるだろう。内橋も、叔父さんも、どこかに行って欲しい。ていうか、消えて欲しい。
「――なにを騒いでる」
「父さん……」
ちらっと様子を窺うと、中庭から歩いてきたのは、下駄を履いた祖父だった。藍色の小紋を着た祖父は、タバコをふかしていた。
「うーちゃん、アイスを落としちゃってショックだったみたいで……落ち着くまで、部屋に連れて行きますね、道央(みちお)さん」
「……汐はどうしてこんな、甘ったれになったかね」
祖父の溜息と小言にイライラしたが、ここで言い返すと「すぐ泣く弱虫のうーちゃん」像が崩れてしまう。弱いから、おじさんが甘やかしてくれることを忘れちゃいけない。
「申し訳あり」
「お前はガキまで誑かしてるんじゃないだろうな?史郎?」
「……っち、違いますっ、違います、汐君はそんなんじゃ」
「どうかね、お前はオスには見境いがないからなぁ」
ふわりとタバコの匂いが強くなる。俺は息を潜めて、おじさんの胸に顔を押し付けている。「ごめんなさい」と消え入りそうな声と一緒に、体が揺れる。祖父がおじさんに何かしているみたいで、体がぐらぐらと揺れていた。
「ばいた」「いんばい」「メス犬」と祖父がいつも――布団の上で、おじさんを責め立てる言葉だった。
一通り、おじさんを罵って気が済んだのか、「汐」と名前を呼ばれた。
「お前も小学生になったんだ……すぐに泣くのはやめろ」
「ぅぁあっ、あ」
はい、とは返事をせずに泣き声を上げる。どうやら解放されたらしく、おじさんが頭をペコペコ下げながら、歩き始めた。「いいんですか、汐は」「今日は私の番ですよ」とか叔父さんの文句が聞こえてきたので「史郎おじさん」と、弱弱しい声を出した。
「今日、お部屋に泊まりたい。おじさんのお布団で寝るから」
「……それは」
俺が世界で一番好きな人は、困ったように笑うだけだった。今日は叔父さんが、部屋にくる順番だけど、俺がいたら部屋には入れないから、いい断り文句を考えているんだろう。
夜、いつも家の男の誰かが、おじさんの部屋にやってくる。そして明け方、浴衣が乱れたおじさんに、内橋がのしかかっているせいで、いつもこの人は朝起きれない。
「うーちゃん、自分のお部屋に戻ろうね」
「やっ!」
なだめるように言われて、俺は首を振った。おじさんから離れたくない。ずっと一緒にいたい人。わがままを言うしか、俺は好きな人を独占できないのが悔しい。
内橋に叔父さん、祖父、そして祖父の部下――誰かがおじさんを独占する時間、俺は何もできないのだ。
「やだっ、今日はおじさんの部屋に泊まるっ、絶対だからね!」
薄くて消えてしまいそうな、水色のシャツを引っ張った。
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