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3.寄生虫
好きになったきっかけとか、特に無い。
俺が生まれるより前から、おじさんはこの家に住んでいて、それで一番広い居間はおじさんのものだった。
物心ついた頃から、俺はおじさんの後を付いて回るのが好きだった。
広大な屋敷は祖父のものだけど、おじさんが住む部屋は広くて、歩き回る場所が多い。後から知ったけど、祖父はわざわざ改築して出来た離れも、最初からおじさんの部屋として、作らせたそうだ。
離れにはいつも、高そうな着物や茶器が並べられていて、これも――全部、祖父からの贈り物だと聞いて、俺の両親はおじさんのことを「寄生虫」と気味悪がっていた。
俺はおじさんとの初対面を、はっきり覚えていない。だっていつの間にかいる人って認識で、多分、弟より一緒にいる時間は多かったと思う。
屋敷の東棟には、食堂があった。そこで俺や弟、両親に祖父が揃う時もあって、一緒に食事をする場所だった。だけどおじさんは絶対に食堂に来なかった。
使用人がおじさんの部屋に、お盆に載せた食事を持っていくのが日常だった。朝、俺はおじさんの部屋に行きたかったから、廊下で待ち伏せして、お盆を取り上げた。
「おじさん」
襖越しに声をかけたが、返事がない。もう一度「おじさん」と呼びかけると、返事の代わりに、がさごそと音がした。
そっと音を立てずに、3センチぐらい、襖を開ける。絹の分厚い布団が見えて、掛け布団が膨らんでいた。
「史郎さんっ、ぅんっ、史郎さんっ」
布団からはみ出した、白い脚と紺色の浴衣が見えた。ぼんやりとした目のおじさんに、到叔父さんが巻き付きていた。
「史郎さんっ、ねっ、キスっ、キスっしよう、ねっ!」
「ぅんっ」
おじさんの小さな頭を掴んだ到叔父さんが、顔をくっつけるようにする。教室で時々聞こえてくる「昨日ドラマでね、ちゅーした」「えー!」と盛り上がる、役者同士の触れ合うようにキスじゃない。
くちゃくちゃと水音がして、到叔父さんはまるで顔を食べるように、おじさんにキスをしていた。
膨らんだ掛け布団が、ぐらぐらと揺れて、時々白い脚が出たり、引っ込んだりするのが変だった。叔父さんの柔らかくて、崩れそうな足に、到叔父さんの足が巻き付いている。
そう、到叔父さんは蛇みたいだった。いつか動物番組で見た、アフリカの巨大ニシキヘビ。黒と茶色の模様が草むらの中を泳ぐように移動して、カピバラに巻き付いていた。
巻き付かれたカピバラは動かなくなって、蛇が大きく口を開ける。頭からそのまま――
俺は襖を閉じて、拳を作った。
「おじさん!朝食!」
バスバスと襖を叩き付けると、部屋の音がピタリと止んだ。構わず叩き続けていると、ぱっと襖が開いて、出てきたのは上半身が裸の、到叔父さんだった。
「……汐、なんでお前が」
「朝、みんなバタバタしてるから。俺が代わりにおじさんの朝食、持ってきたんだよ。到叔父さん、早く食堂に行った方がいいんじゃない?」
お盆を見せつけるように、持ち上げてやる。早くいなくなれ、と念じながら見上げていたら、は~と、到叔父さんはでかいため息を吐いた。
「史郎さん、午後の約束、忘れないでくださいね」
叔父さんが部屋を出て行くと、俺はお盆を持って、布団に近づいた。寝巻の浴衣が乱れたおじさんは、恥ずかしそうに掛け布団を体に巻き付けるようにしていた。
「おじさん、朝食」
「……うーちゃん、ありがとう。あのね、でもね、こうやって朝食持ってこなくて大丈夫だから、ね」
「ねぇ、午後から到叔父さんとどこか行くの?」
もごもご言ってる叔父さんを無視して、話しかける。お盆にはコーヒーとクッキーが乗った小皿。これぐらいしか食べないから、おじさんはいつも痩せてるのかな。
「あの……隣町にね、到さんと出かけるんだ」
「えー! 俺と海には行けないのに?! 到叔父さんとは出かけるんだ?」
布団に倒れ込むようにして、おじさんに抱き着いた。瞬間、ふわりと漂ってくる甘い匂い。おじさんの胸元からいつも漂ってくる、ミルクのような匂いを思いっきり吸い込んだ。
「……ごめんね」
「やだ! 俺、今日おじさんと遊びたい。午後は俺とお出かけして!」
「……うーちゃん」
宥めるように頭を撫でられる。ちらっとおじさんを窺うと、眉尻が下がって情けない顔をしていた。
「ごめんね……今日はね、到さんと約束してて……ね、ごめんね」
ここでいつもだったらおじさんが折れて、俺と一緒にいてくれるのに。最近、到おじさんがうるさいせいか、一緒にいられる時間が少なくなった。
最悪
到叔父さんが厄介払いしたのか、内橋もいない絶好の機会。絶対に渡したくなんかない。俺はおじさんが一番、言われて困る――おじさんが言うことを聞く魔法の言葉「おばあちゃん」を口にした。
「……俺、本当はおばあちゃんに会いたいんだ。でも……できないんだよね」
悲しそうな顔をして、上を見上げる。たちまちおじさんが泣きそうな表情になった。
「ご、ごめん、ごめんね、そうだよね、やえ、おばあさまに、会いたいよね、ごめんね」
「……おじさんがいるから、おばあちゃんはこの家を出て行ったんだよね?なんで?おばあちゃんはどうしていなくなったの?」
「……っう、ご、ごめんね」
祖母にはいつでも会えるんだけどね。
それに、本当の祖母じゃない。俺の父親の母親――1番目の奥様って、野々村さんが言ってる人も出て行って、次は到おじさんの母親も出て行った。
俺と血はつながらないけど、到おじさんの母親をおばあちゃん、と一応、呼んでいる。おばあちゃんは出て行って、隣町でアパート経営とかやっている。悠々自適な生活をしている人で、月に一回は会いに行くと、必ず小遣いをくれる。
だから別に今すぐ会いたいわけじゃない。でも「おばあちゃん」と言えば、おじさんが弱くなるから。
おじさんと一緒に過ごしたい俺は「おばあちゃん」で、おじさんを言う通りにしていた。
「会いたいけど、会えないから……代わりにおじさんと遊ぶのは駄目なの……?」
「っうーちゃん」
ぎゅっと抱きしめられて、気持ちが上向く。これなら午後もおじさんと一緒にいられそう。
布団の中に入りたい俺は掛け布団を捲って、おじさんの胸に顔を押し付けた。やっぱり温かいミルクの匂いがする。
弟が生まれたばかりの頃、ベビーベッドで眠る楓から、こんな匂いがしていた。顔をグイグイ押し付けると、おじさんは慌てたように胸元を整えた。
「うーちゃん…ごめんね、おじさんのせいで……」
「おばあちゃんに会いたいなぁ」
おじさんの体が震え始めた。もういいかな。
でも後で到叔父さんを優先されたら嫌だから、知らないフリをして、おじさんを問い詰める。
「どうしておばあちゃん、いないの?」
「……それは……」
祖母に会うと、必ず家の様子を聞かれる。特に祖母は『史郎は?あの人は大丈夫なの?』と俺に聞く。
何が「大丈夫」なのか。
この質問には、いろんな意味がある。祖母はいつも祖父を禄でもないと罵り、おじさんの身を案じていた。
『私は逃げてもね、ほったらかしだけど。史郎はね、駄目だわ。逃げられないのよ』
史郎は可哀想――遊びに行くと、祖母の口癖だった。そんな祖母はサークルで出会ったという男性と半分同居して、幸せそうだった。
「でもおばあちゃんがいなくても、おじさんがいるから……寂しくないけどね」
あんまり追い詰めると、嫌われるかもしれないので、フォローを入れる。甘えるように頬を胸に擦り付けると、頭上から泣き声が聞こえてきた。
「うーちゃん……っおじさんも、うーちゃんのこと、息子だと思ってるからねっ」
「……」
言われた瞬間、すーっと気持ちが萎えていくのが分かった。おじさんはどうやら結婚していて、娘がいるというのは会話で知った。
もう何年も会っていない、自分のせいだ……会いたい……布団の中で時々聞かせられる、おじさんの家族。
おじさんと結婚してるってだけで、俺は多分、その人に何をするかわからない。祖父と同じくらい嫌いな存在だけど、おじさんが俺を可愛がってくれるのは、自分の娘を重ねているから。
叫び声を上げたくなるのを我慢して、俺は「おじさんといたい」と甘えた。
「……午後は、何して遊ぼうか」
「んー……お昼寝したい。一緒にお昼寝してぇ」
ぎゅっと抱きこまれて、頭を撫でられる。温かい乳の匂いに満たされて、俺はおじさんの背中に腕を回した。
……
学校から帰ると、俺は汗で濡れた帽子とランドセルを部屋に放り投げて、祖父の部屋に向かった。
今日はおじさんが到叔父さんと出かけて、部屋にいない。叔父さんは性格が最悪で、ネチネチしてる
から、約束をすっぽかされたことを根に持っているらしい。俺が学校に行っている間、おじさんを外に連れ出してしまった。
「おじいちゃん」
「……なんだ」
部屋に行くと、縁側で祖父がタバコを吸っていた。中庭に足を投げ出し、新聞紙が広がっていた。その横には、灰皿に溜まったタバコ。
まだ一箱空いてないのを確認して、隣に腰掛けた。
「どうした、珍しいな」
「お願いがあるの」
だいたい祖父がタバコを一箱吸い終わると、仕事に行ってしまう。鼠色の小紋から、血管の浮いた腕が覗いていた。
「どうした、小遣いが足りないのか」
「違う。夏休み、海行きたい。史郎おじさんと」
中庭に植えられた柿の木から、セミの鳴き声がする。わんわんと耳に響く鳴き声から、一匹じゃなくて、沢山いるのかもしれない。
ちょうど縁側は木陰になっていて、葉っぱの間からキラキラと光りが差し込んでいた。
「――史郎と?」
「うん、おじさんと一緒に行きたいの。内橋は……一緒でも良いけど」
「……駄目だ」
「なんで?」
ちらっと祖父を見ると、中庭を眺めながら、たばこを吸っていた。こちらを見ようともしない態度がむかつく。学校の先生や両親、それにおじさん、みんな俺の目を見て話すのに。
祖父だけだった。俺を視界に入れようともしないのは。
「それはこっちが聞きてぇなぁ……お前はどうしてそんな、史郎にこだわるんだ?」
俺に興味もない祖父。それでも返事を間違えると、俺はおじさんと引き離されるかもしれないから、俺は一呼吸入れて、口を開いた。
「言うこと聞いてくれるから。お父さん、お母さんが駄目っていうこと、おじさんは駄目って言わないし……遊びたい」
「っは」
祖父の片頬が歪む。タバコを押し付けると「あいつは使用人じゃないぞ」と言った。
「知ってるよ。おじさんは――」
アイジン、キセイチュウ、オトコメカケ……両親の悪口を思い出して、口を閉じる。祖父を窺うと、目を細めていた。
「お前はかなり、史郎にわがまま言ってるみたいだな」
「言ってないよ」
「そうかねぇ」
祖父が新しいタバコに火をつける間、俺はじっと我慢した。祖父が何を考えているか分からないが、このままの雰囲気だったら許可が出るかもしれない。
「小遣いをやるから、ガッコウの友達と海に行ってこい」
「……あんまりわがまま言わないから……おじさんと海行きたい」
「駄目だ……あいつは俺のものなんだ。お前が好き勝手していいもんじゃない」
俺のもの
祖父の口から出た言葉は、勝利宣言のようだった。誰も手を出せない、そんな圧倒的な言葉に、俺はぐっと唇を噛んだ。
「な……なに、それ……なんで、おじさんはおじいちゃんのものなの?おじさんって、ずっとここにいるよね、おじいちゃんのものだから、ここにいるの?」
「そうだよ。史郎はな、あいつが赤ん坊の頃から知ってる。そうだなぁ、俺がお前の年ぐらいだったかな、あいつのおしめを変えたのは」
聞くと、おじさんの父親は、眞井家の奉公人だったそうだ。奉公人って何と聞いたら、使用人みたいなものだと言う。産着に包まった史郎おじさんを、祖父が抱っこしたのだと言う。
「ふにゃふにゃしててなぁ、こんなに小さいもんだと……可愛かった」
祖父の口から聞かされる昔話に、胸がチクチクした。俺が知らない、おじさんの子ども時代。懐かしむように、祖父は「あの柿の木」と指さした。
「ガキの頃は遊び場だった。柿をもいでね、史郎に食べさせてやった」
「……そう」
「ずっと俺のものだったのにな……あいつが俺を裏切った」
「なにそれ」
祖父は笑うだけで、たばこを咥えていた。おじさんが祖父のものだったら、クリスマスとかにねだったら貰えるだろうか。
白髪のある祖父より、俺の方が若いし、絶対におじさんだって俺の方が可愛いし、好きだって言うはず。
祖父はおじさんにいつも酷いことばかりしているから、絶対に俺の方が良いに決まってる。
「じゃあ……史郎おじさんちょーだい。クリスマスか、お年玉の代わり。お小遣いいらないから。ちょうだい」
じゃりっと音がして、踏石に視線を落とした。ちょろちょろと石に群がる蟻を、祖父が草履で踏み潰していた。
「あいつは死ぬまで俺のもんだよ、汐」
「……なんで」
セミの鳴き声が、熱さを増しているようだった。制服も着替えずに、祖父の部屋に直行したから、汗臭い。ワイシャツが背中に張り付いていた。
じゃり、じゃりと擦れる音が、セミの鳴き声に混じる。列を作り始めていた蟻を、祖父が念入りに踏み潰していた。
「お前もな、言うこと聞いてくるのが欲しかったら、自分で……そうだな、捕まえたらいい」
「つかまえる?」
「そう。昔な、史郎と山に行って、ウサギを仕留めてた。罠を張るんだ」
俺はおじさんが欲しいのであって、他の人間なんかいらないのに。話をはぐらかされた気がしたが、これ以上騒ぐと、祖父に勘付かれるかもしれない。
セミがうるさい縁側で、俺は黙って踏み石を見ていた。
「罠は単純だ。ウサギが食べる餌なんかを吊るしといて、その周りにワイヤーを張っとく。餌に食いつこうとしたウサギがワイヤーを通った瞬間、縛り上げるんだ。簡単だろう?」
「……そぅ」
「これをなぁ、人間にやるんだよ。まぁ少し、手間暇かけねぇと、気づかれるけどな」
祖父がしつこく踏んだせいで、踏石の上で、蟻が散り散りになっていく。目を凝らすと、石の上で踏み潰されて、ぐしゃぐしゃになった蟻の死骸ができていた。
「飲食店なんかやる時な、質の悪い奴はここで店を始めたら儲かります、なんて言いくるめて、出資金を出させるんだ。最初は銀行も融資してくれるだろうし、物珍しさから客も来るが、早いと半年で閑古鳥がなく。でもテナント料だのは1年契約結んでて、金を払い続けないといけない――分かるか?」
「……よくわかんない」
「まぁ、将来の役に立つかもしれねぇから聞いとけ。店は赤字。それでもテナント料なんか払い続けて、懐が苦しくなる。で、銀行屋に追加融資を頼んでも、金なんか貸してくれない。そんな時、金は誰に借りる?」
「……えーてぃーえむ?」
金を下ろしてくる、と大人が言う時、ATMと耳にする。そのまま答えたら、祖父は笑い声を上げた。
「そうだなぁ、ATMから金が出てくるなら良いけどな、じゃ、ATMからもお金が無くなったら?」
「……」
「そうやって追い詰められた奴は、貸金業者に縋り付く。そこでも金を借りて、返せなくなって、ブラックリストに乗るとな、取り立てが始まるんだ」
取り立て、と聞けばヤクザのイメージ。だけど今、隣にいる祖父は、借金したヤクザを取り立てるために、家に乗り込んだという逸話まである。
「それって、なに、ヤクザ?」
「そうそう、借金で首が回らなくなった奴をな、捕まえて選択させるんだよ」
踏石にはほとんど蟻がいなくなっていた。それでも祖父はしつこく、足を動かしていた。「あいつらには、いろいろ学んだよ」と言う祖父は、息を吐いた。
「何を選択させるの」
「そいつに家族がいれば――特に妻と娘だったら最高よ。借金を返すために、妻とこどもを売るか、それとも自分を差し出すか、選択させるんだ」
――いつだったっけ。
『実はね、おじさんには娘がいてね。うーちゃんぐらいの年からもうずっと会ってないんだ』
金曜日の夜、ちょっと夜更かしして良いよって、おじさんの部屋に泊まった。宿題の音読を聞いて貰って、布団を広げた。
おじさんに抱き着くようにして布団に入ると、懐かしむように頭を撫でられた。
「妻と娘を出すと言えば、その場で女は犯られる。売り物になるかの確認よ。自分をと言えば、臓器をばらされるか、海に行くか――男はだいたい、そうなるな」
「……それで……おじさんを捕まえたの」
俺はもう何年も会っていないって言う娘の代わり。それでも嬉しかった。好き?と聞けば、おじさんはにこにこして、抱きしめてくれる。
祖父の返事を聞くのが恐ろしかった。祖父は子どもの俺でもわかるくらい、人を不幸にして、そしてこの屋敷を作った人だ。
祖父は目を細めて、柿の木を見つめていた。
「『お前の娘がこうなるんだぞ』――こう言えば、大人しくなる。自殺もしない。そしてお前の言うことをよく聞くようになる。覚えとけ」
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