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汚い声とともに叩かれ続ける玄関のドアを開けた。
なんの用事だと問いかける間(ま)もなく、大崎(おおさき)がぼくの部屋へと上がり込む。
「ちょっと。なんなんですか、人の部屋に土足で!」
「映己(はるき)は? おまえのとこにいるんだろうが!」
酒臭い男が2Kの狭い部屋を踏み荒らす。
「映己くん、いなくなったんですか?」
「めずらしいことじゃねえけど、あしたはあいつがいねえと困るんだよ。センターが探り入れに来やがんだ」
児童福祉センターによる家庭訪問のことを言っているらしい。そういうことでもなければ共に暮らしている子どもの不在が「めずらしくない」なんて。よく言えたものだ。
きれいな顔をしていて、友達も多くて、世渡りが上手そう――というのが、ぼくが映己に対して抱(いだ)いた最初の印象だった。要領と人当たりのよさは、孤児である身の上ゆえに身につけたものかもしれないと思うと、いまはやるせない。
「うちには来ていませんよ。ぼくも手伝います」
鍵を手に取って、急いでスニーカーを履いた。
「じゃあ、見つけたらうちまで連れて来いよ」
「ちょっと、大崎さんも捜すんでしょう?!」
引き上げようとする大崎に、思わず声を荒げた。
「はあ? ガキっつってもあいつももう十五だぞ。女でもあるまいし、二人がかりで捜すこたねえだろ。おれは帰ってのみ直す。クソ、酔いが醒めたぜ」
のんだくれで、持ち家はあるがまともな職があるでもなく。
「酷いですね。それで保護者だなんて」
「ああ? 前のやつよりよっぽどマシだぜ? おれは男にしゃぶらせたがるヘンタイじゃねえしよぉ」
あからさまな言いように眉を顰めた。映己からはっきりと聞いたことはないけれど、以前いっしょに生活をしていた人からそういう虐待を受けていたというのは、おそらく事実だ。さもなければ、いくら遠縁にあたるとはいえ大崎のような男に白羽の矢が立つとは考えにくい。大崎のもとが安全であるわけでもないのだ。
ぼくの顔をじろじろと見て、大崎は下卑た笑いを増幅させる。
「あっ悪(わり)ぃ悪ぃ。兄ちゃんは映己とやりてぇくちだったな? ならそれは止めねえからよ、あしたの朝九時までには良い身なりでうちに連れて来てくれよ」
いやらしく裏返る酒に焼けた声。
吐き気がした。
県道沿いの堤防に映己はいた。
「映己くん」
海が真っ黒い水面を金属のように光らせている。
堤防の上に寝そべったまま、映己はふりむき、「あ」と声を上げた。
少し離れたところにある外灯のおかげでしっかりと見て取れる表情は、あまりに和やかだった。
「ごめんなさい。もしかして大崎さんに頼まれました?」
細い身体をくるりと捻って、堤防に腰を掛ける格好で身を起こした。
まだ幼い。
まだ素直だ。
放っておけと恫喝するような、拗(こじ)れた雰囲気は、まだ、感じられない。
手を差し伸べるつもりがあるから、どうか、手遅れになる前に。
「ぼくが映己くんの後見人を引き受けたいんだけど、どうかな」
夜の海とそっくりな黒い目に希望が宿ったのを見た。映己が助けを求めているという確信。ぼくにはそれだけが必要だった。
「そんなこと、できるんですか? 他人なのに」
「勝手だけど、西田先生に相談してたんだよ。福祉センターの人があした来るんだろう。そのときにぼくから話をしたい」
映己は馴染みのある司法書士の名前に反応した。
大崎よりまともだと判断されるだけの生活環境を築いているつもりだ。部屋が狭いなら、引っ越せばいい。
映己が伸ばしてきた手を取って、堤防から下ろした。これが恋の駆け引きなら、完全な失敗だ。大人ぶった庇護の約束――それは、恋を諦める宣誓だった。
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