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短い夜が明けようとしていた。
身を起こす女を、後ろの山際から昇ろうとする朝日が照らす。
深くあごをひいて形づくられる鋭い三角は、牙をむく蝮(まむし)の頭のかたちのよう。
蝮――それは女の父のあだ名であった。
傍らで木の幹に背をあずけている小姓は、まだ目を閉じている。
女は小姓を見た。小姓の腹のあたり、を、見た。
(まだ、ふくれている)
小姓の腹には、女のただ一人の“殿”がおさまっている。
――濃。この先、蘭を討たれるのは、わしが討たれるも同じだ。よいな。
この世はゆめまぼろしのようだと豪胆に笑う殿を、そんな場合でもないのに女――濃――はきつく睨んだ。
たかが小姓――とびきり気に入りの、と頭につくにしろ――ごときを、正室にむかって殿の命にも等しい存在と説く。
ひどい侮辱だと思った。
――ここに火をかけて落ち延びろ……落ちるってのは好きじゃないが……ともかく二人連らって行け。濃も蘭も、だれにもやらん。
――お屋形様。なにを気弱なことをおっしゃいますか。らしくもない。
――ばか言え。ここでわしが死ぬのが、一番それらしいだろうが。
――それらしいかどうかではなく、お屋形様らしくないと申しておるのです!
いつも冷静な小姓――蘭――が声を荒立てていた。
気の短い殿に強い当たりで挑むことが得策でないとよくよく知っているだろう蘭が、殿に怒鳴り声をぶつけていた。
――約束だろう。蘭。覚悟を決めろ。
殿の声に伏せられた蘭の目が光る――のを、濃は見た、と、思う。
それは二人だけが知る、かつて交わした約束のやり取りなのだとわかった。
寄り添おうとする二人から濃は目を逸らし――切ることはできなかった。
この時恐らく濃は叫び声を上げたろう。
濃の声だと聞き咎める者があれば――殿の自刃を見かねて上げた叫びだと聞き做す者があれば――濃はいい笑い者だ。
気丈で美しいと評判だった蝮の娘も、老いて焼きが回ったか、と。
殿はいつものように腰を下ろし、持て余すように膝を立てていた。
その傍らへとむかった蘭は、殿の首筋へと歯を立てた。
冥土の土産に戯れでも始めるつもりかと眉を顰め――次の瞬間、濃は目を剥いた。
蘭の歯は、特別に大きく尖って、殿のからだへと埋まっていった。
仄かな灯りのなかでも顕かに、殿の顔が色を失い、急激にその姿が老いてゆく。
――なにを……そなたなにをしておるのです! 気でも振れたか!
濃の剣幕に殿が笑った――のか干からびたからだがからからと鳴ったのか、それはもうわからない。
で、あるか。と、殿の声が聞こえたと思ったのは、きっとまぼろしだ。
だって――殿の声を聞いたと思うその時、蘭は殿の頭(こうべ)を噛み砕いていた。
頭、腕、肩、足、胴、最後に胸。
髪の一本爪の一片も残さず平らげた蘭が顔を上げた。
赤く濡れた唇を、薄い舌がぺろりと拭うのを濃は見た。
立ち上がった蘭が火皿を蹴ると、畳を這うように炎が走り、蘭は硬直する濃を抱えて外を目指した。
下ろせ、と。
二人の約束はわかった、と。
殿が蘭と共にあるいま、濃がここで果てる理由はない、と。
こんな満腹の者に運ばれるくらいなら手前で走ったほうがよほど速い、と。
濃には言いたいことが山ほどあったが、一つとして口をつくものはなかった。
顔を蘭の背にやるように抱え上げられながら、腰の辺りに重く温んだ感触があった。
それは死んだ者の、失われてゆく温み、ではなかった。
泣いているのだ。無我夢中なのだ。蘭は。
こんな梅雨のさなかだというのに火の回りは早い。
湿っぽさはすべて、この炎のうちへ燻(く)べてゆく。
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