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しばらく休みたい、と言ったおれに、かあさんは「田舎暮らしでもする?」と言った。
かあさんの仕事の休みに合わせて連れて来られた――かあさんの運転する車をおれがバイクで追いかけて――のは、日当たりがいいとはお世辞にも言えない、山中の一軒家。
「風は時々通してほしい、二階のものには手をつけないでほしい。――っていうのが、末吉おじさんの頼みだったのよ」
末吉おじさん――かあさんの大叔父さん――が一人暮らしをしていたというその家は、二十年近く人が暮らしていないというわりには傷んでいなかった。
もしかしたら、時々風を通されてさえいれば、この程度で済むものなのだろうか。
空き家が如何に傷むか、なんて、べつに他に例を知っているわけじゃないから、実際のところはわからない。
けれどなんとなく、この家は特別に守られている――ような気がした。
かあさんの大叔父さん――おれからすれば、曽祖父の歳の離れた弟――であるかれは、生涯独身であったのだという。
兄や姉はもちろんその子らも既に皆鬼籍に入っており、又甥又姪たちはかれの家財の管理に興味を持たなかった。
結局、一番近くの――と言っても車で一時間半はかかる――町に暮らすかあさんがかれの遺言「風を時々通す、二階のものには手をつけない」を実践することとなったそうだ。
「不便はあるだろうけど、一人になりたいって言うんなら、いいところでしょう」
「急に学校休みたいとか言ってるのに、訊かないの? 理由とか」
「あら。言いたいんなら聞いてあげるわよ。もちろん」
あっけらかんとしたかあさんの態度に、それでも黙り込むと、かあさんは「いいのよ」と言った。
「理由なんて聞きだしたって、それが正しいかどうかを判断してあげることは、おかあさんにはできないんだから」
換気のために開けさがした家中の窓や戸を、夜露の降りる前にと閉めなおした。
戸袋に落とした雨戸をもう一度桟にのせるのはあまりの重労働だと判断したので、雨戸を引くことは諦める。
かあさんが帰るのを見送ってから数時間が経っている。
空を注意深く見上げれば、夕暮れ時なのだとわかるが、日背(ひしろ)に位置し、ひさしの深いこの家は西向きの縁にさえ夕日が射し込むことはないようだ。
その時、二階――とは名ばかりの屋根裏のもの置き――で物音がした。
家鳴りだろうか――ちょうど人が歩く気配とそっくりの物音が二階を通りすぎて、梯子でつながる四畳半のほうへとむかうように聴こえた。
(いや、現実逃避はやめよう)
これは間違いなく、人の気配だ。
泥棒、という言葉が頭をよぎるが、こんながらんどうの空き家で、それはあるまい。
戸締りはされていたはずだが、古い家だ。
なんらかの隙でもって侵入を許していたのだろう。
そして偶然にも「二階には手をつけない」という遺言に守られていたのか。
四畳半は、縁へとからだをむけているおれの、ちょうど背後だ。
そして人の気配も、いま、すぐ背後に迫っている。
観念してふりむこうとしたおれの肩を、人影がつかんだ。
とっさのことにバランスを崩して畳に背をつけたおれに、人影がのりあげてきた。
ひ、という恐怖のあまり漏れたにしてはささやかすぎる悲鳴は、それでもおれの胸を引きつらせる。
目の前に迫る人影に、目を見開く。
浮浪者らしさはまったく見られない、非常にうつくしい青年がそこにいた。
さらさらと重力に従う薄茶色の長い髪が、おれの顔や首筋をくすぐった。
「なっ……やめろよ!」
少しでも強く力をぶつければ壊してしまいそうな儚げな青年だというのに、かれはおれの抵抗をものともしない。
「なんじゃ、末吉。これはまた初心(うぶ)な反応じゃのう」
青年の指先が、かれ自身の髪を、おれの首筋からはらう。
長い髪を耳にかけて、かれが顔を寄せてくる。
「ずいぶん久しぶりのような気がするのう……ほんの昨夜(ゆうべ)か……百年ほども経ったか……?」
「いっ――」
魅入られたように動けない。
自由のきかないからだはまるで夢のなかのようで、けれど首筋から走った痛みが、これが夢ではないと教えている。
「懐かしい……懐かしい……か……? 末吉の血じゃ、末吉よ……」
青年の繰り返す名が、この家を遺した曽祖叔父のものであることを、ふと認識した。
重いからだをふり切るように、かあさんの置いていった菓子の入った袋へと手をのばす――手の届くところに、他のなにもなかったのだ――。
袋のなかから手探りで、一番硬いものをつかみ出し、投げつけた。
標的――青年――からは逸れてしまったそれは桟敷に当たったらしく、ガラス瓶が砕け散った。
薄暗い空間に淡く浮かぶのは、色とりどりの金平糖だった。
青年の細い指が一粒つまみ上げ、口へと入れ、咳き込んだ。
「ふふ……きれいでもろい石じゃのう。ほんにまずい。細(こま)こうて吐くにも吐けんわ。末吉の血で流し込まねばおられん」
見るともなく見てしまったかれの口元は赤く濡れており、それが自分の血であることを思えば、気が遠のくような気がした。
その血を、かれは恍惚の表情で舐めとってゆく。
「お……おれは末吉……さん、じゃ、ありません……」
おれの告げる真実を、青年は鼻で笑った。
「ちぃっと寝過ぎたかの。寝る前のことが思い出せんのじゃ。長く放っておかれて拗ねておるのか? 愛いやつよ、のう、末吉」
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